IMITATION CRIME

 
Written by とらこ

[後編]


 直江は翌日もまた千秋の店を訪れた。カウンターの席に座り、いつものように高耶と話をしている。
 が、その二人の間を漂う空気が微妙に変化したことに、千秋は鋭く気がついた。
 直江の言葉と態度が纏っていた嘘臭さが消えて、真摯な熱い眼差しで高耶を見ている。高耶もまた、一線を引いて直江を退けようとしていたのが、優しく、甘えさえ含んだ目で見つめている。
(……昨日、なんかあったな。こりゃ)
 にやにやと笑みを浮かべてその光景を眺めていると、視線に気がついた直江がちらりとこちらを見て、口元に会心の笑みを刻んだ。
(お〜お。幸せそうな顔して)
 恥ずかしいくらい熱い空気に当てられて苦笑した千秋だったが、ふと胸中に不安がよぎるのを感じた。
(……何事もなきゃいいけどな)
 幸せそうな友人と高耶を眺めながら、そう思った。
 −−だが、これから半月の後、千秋の予感は的中することになる……。


*  *


 相変わらずミホにつけまわされているものの、直江にとっては平和で幸福な日々が続いている。
 高耶とは週に二、三度逢っては食事をし、それ以外の日はバイト先の千秋の店で毎日のように顔を合わせている。
 ためらいがちにだが、直江の気持ちを受け入れ始めている高耶が、とても愛おしい。
 高耶への気持ちが本物だと悟ってからは、女に触れることもなくなった。高耶との間はまだ学生同士のような触れるだけのささやかなキスだけだったが、それでも他にたとえようもないほど幸福だった。
 当初の目的すら忘れはて、直江はこの甘い幸福がずっと続くものだと思いこんでいた……。
 その日がくるまでは。



 ある夜。
 いつものように食事を一緒にした後、高耶をアパートまで送り届けた時。
 触れるだけのキスに、いつものように顔を真っ赤にした高耶が車を降りていくと、二、三歩進んだところでふいにぴたりと立ち止まってしまった。少し怯えたような動作に不審を感じた直江は、すぐに車を降りて高耶の側へ行った。
「どうしたんですか、高耶さん?」
 声をかけながら前方に視線を巡らすと、暗闇の中にぼんやりと人影が立っているではないか。まるで幽霊のようなそれに少し驚いたが、すぐに高耶を庇うように立ち位置を変える。
「……誰だ?」
 誰何の声に応えはなく、人影が前に踏み出してくる。
「……本気、なの?」
 怒りと嫉妬を滲ませて震えている声には、いやというほど聞き覚えがあった。
「……ミホ?」
 街灯の下でようやく見えた顔には、高耶も見覚えがあった。以前から直江に執着していて、千秋の店で騒ぎを起こしたこともある女性だ。
(……たしか、葛木ミホとかいったっけ)
 ミホは美しい顔をどす黒い嫉妬に歪め、直江と、そして高耶をきつく睨みつける。
「……その男の子に、本気なの!?」
 最初は、自分を遠ざけるための下手な芝居だと思っていた。直江が男に宗旨替えするなんて、あり得ない。でも、この半月の間に二人が纏う空気が変わった。自分には決して向けてくれない、優しい笑顔と行動。ひしひしと伝わってくる恋人同士の甘い空気に、ミホは気が狂うような思いを味わった。
 ミホのヒステリックな叫びに、高耶は思わず肩を竦ませる。そっと直江の横顔を見上げると、さっきまでの柔らかい優しさの影もない、冷え切った目をしていた。自分に向けられたわけでもないのに、背筋がぞくりと寒くなる。真正面から見据えられているミホはさぞつらかろう。
「答えてよ!」
 ひとつ、小さくため息をついてから、直江はおもむろに口を開いた。
「……当たり前のことを聞かないで欲しいですね。本気でもないのに同性を口説くはずもないでしょう」
 ミホの瞳が大きく見開かれ、溢れる涙に潤む。
「……ど、して……? 私のこと、どうでもいいの?」
「最初から一夜限りの遊びだったと、何度も言ったはずですが」
「……わかってる! でも、あたしはもう、あなたじゃなきゃ……っ!」
「もう、いいかげんにしてください。こんなことをいつまで続けても、私は貴女のものにはならない」
「……でもっ!」
「私は高耶さんを選んだんです。私の心は、貴女では満たされない。−−もう、終わりにしてください」
 静かな言葉に、ミホは堪えきれずに大きな涙を零した。だが、もう騒ぎ立てることはなく、それは完全に諦めを受け入れた静かな涙だった。そのまま一言の言葉もなく、ミホは二人の前から歩き去っていった。彼女が直江の前に立つことは、もうないだろう。
 ミホの姿が暗闇の中に見えなくなって、高耶はようやく我に返った。いきなり人の修羅場に巻き込まれて、言葉もなく眺めているだけしかできなかったが、直江の言動を思い出して眉を吊り上げる。
「直江! お前なぁ……。女に対して言いすぎ! あれじゃ可哀想だろっ」
「あれでいいんですよ。下手に優しい言葉をかけると、それだけ希望を持たせてしまうから。彼女に対して答えてやることができない以上、すっぱり諦められるようにしてあげたまでです」
「…………」
 たとえ僅かでも、傷つかずに終わる恋なんてない。
 恋愛経験皆無といっても過言ではない高耶だって、綺麗事を言うつもりはない。でも、やはり納得できないのは、自分の存在によって彼女が深く傷ついたからかも知れなかった。
「……だけど」
「……貴方にも、いずれわかるときがきます。もう少し大人になったらね」
 二十歳の男をつかまえて何を言うかと思えば。
 憮然として黙り込んでしまった高耶の頬にキスをして、直江は言った。
「明日、また店の方へ行きます。−−お休みなさい。高耶さん」
「……お休み」
 名残惜しそうな顔で車に戻り、走り去るのを見送りながら、一瞬胸中によぎった不安に、高耶は深く息をついて曇った夜空を見上げた……。


*  *


 次の日の夜。
 自分の言葉を違えず、直江は千秋の店に姿を現した。
 −−しかし、その傍らには以前のように、美しい極上の女がいた。
 それを見た瞬間、高耶は少なからずショックを受けたが、努めて平静を装った。
 直江は女と二人でカウンターに腰掛け、それとなく高耶の様子を窺ったが、彼は素知らぬふりで他の客の相手をしている。
(……こんなはずじゃなかったのに)
 本当ならば、ひとりでここへ来て、ゆっくり高耶と話をしたかったのだが、店に入る直前に運悪く顔見知りの女につかまってしまったのだ。
「……よぉ。久しぶりに女連れか?」
 目の前にやってきた千秋が、心底面白そうな面持ちで言った。言外に高耶の事を匂わせているのは明白で、直江は困ったように眉根を寄せて首を左右に振った。
「……今日はゆっくりひとりで飲みたかったんだが」
「何言ってんの。ようやくあの馬鹿な女がいなくなって、男とつき合ってるフリなんてしなくてもよくなったんだから。久しぶりにつき合ってくれてもいいでしょ」
 瞬間、高耶の肩がびくりと震えたのが遠目にもわかった。
(……よけいなことを)
 まさか、高耶のことを本当に愛してしまうとは思いも寄らなかった直江は、馬鹿げた笑い話としてこの女に話してしまっていたのだ。
 自分でもすっかり忘れ果てていた当初の目的を、よりにもよって最悪の形で暴露されてしまい、内心気が気ではない。
「なんだよ。宗旨替えしたんじゃなくて、フリだったのか?」
「そういうこと。まさか本当に効果があると思わなかったわ」
 ころころと笑う女が忌々しい。千秋も千秋だ。こんな女と一緒になってよけいなことを言わなくてもいいのに。
 こんな連中にかまっている場合ではない。高耶と話をして、誤解を解かなければ。そして、自分の本当の気持ちを、きちんと伝えたい。
 二人を無視して直江が高耶の方へ行こうとして腰を浮かせたとき、当の高耶がつかつかとこちらに歩いてきた。その表情を見て、直江は自分の顔が強張るのを感じた。
 表だった表情はなかった。しかし、黒い瞳には深い怒りが宿り、きつく直江を見据えている。だが、直江にはその顔が今にも泣き出しそうに見えた。 
 声などかけられるはずもなく、見つめ返したまま立ち竦む。 
 声をかけられる以前から直江のことはわかりきっていたはずだ。
 誰にも本気にならない、遊び慣れた男。信じるに値しない男。
 わかっていたはずなのに、自分の心に生じた引き裂かれるような痛みに、高耶は不覚にも泣きそうになってしまった。が、この男の目の前でだけは泣きたくない。そう思って、苦痛を必死に噛み殺しながら、怒りに満ちたきつい目で直江を睨みつける。
「人のこと利用して、女傷つけるのがそんなに楽しかったかよ?」
 抉るような罵倒の言葉に、直江はとっさに口を開きかけたが、高耶の言葉に阻まれる。
「……高耶さ……」
「お前、最低だな」
 吐き捨てるように言い放って、手にしていたグラスの中身を直江に向かってぶちまける。琥珀色の酒を頭から被って、思わず目を伏せる。
「……そうやってずっと、自分勝手に人を利用して、傷つけて生きていけばいい。けど、オレにはもう金輪際関わらないでくれ。お前みたいな奴と、二度と話もしたくない」
 それだけを言い捨てて、高耶はくるりときびすを返して店の奥に姿を消してしまった。
「なぁに? 失礼なコね」
 そう言いながら酒を拭き取ろうとする女の手を乱暴に振り払い、カウンターの椅子を蹴倒すように高耶の後を追おうとする。
「高耶さん!」
 カウンターの中に入って店の奥へ行こうとしたが、千秋に止められてしまう。
「邪魔するな!」
「馬鹿が。まずその酒臭い顔を拭け」
 顔面にいきなりおしぼりを押しつけて、ごしごしを容赦なく擦る。
「……っ! そんなことしてる場合じゃ……っ!」
「あいつはもう店出ちまったよ。さっきすぐに裏口のドアの音がしてたからな」
 千秋の言葉を受けて、直江は無言できびすを返して店を飛び出していってしまった。
 後に残された女は呆然とドアを見つめている。
「なに? どういうこと……?」
「どういうって……。見たまんまさ」
 苦笑めいた千秋の言葉に、女は幾度も目をしばたかせていた……。


*  *


 店を出ると直江は左右を見回し、人混みに紛れかけた高耶の背中を目聡く見つけた。
「高耶さん!」
 走って追いつくと、肩をつかんで振り向かせようとしたが、高耶は激しく抵抗した。
「オレに触るな!」
 汚れたものを嫌悪して振り払うような厳しく鋭い動きを難なく封じて、腕をつかんで引きずるように連れて行く。
「こんなところでは話もできない。少しつき合ってください」
「いやだ! お前と話すことなんてない!」
「貴方にはないかも知れませんが、私にはあるんです」
 感情を抑えた低い声にびくりと身体を震わせて、高耶は黙り込んだ。もう抵抗はなかったが、自分で歩くこともせず、ずるずると引きずられてついていく。
 直江は近くの駐車場に停めてあった自分の車まで行くと、高耶を助手席に押し込んだ。そして、自分も乗り込むと逃げる隙も与えずに車を発進させた。
 ヘッドライトの海を泳ぐように進む車内で二人は黙り込んでいた。どちらも口を開かず、車はやがて高耶のアパートの近くまできた。人気のない暗い道路の脇に車を寄せて止めると、直江は視線を高耶の方へと向けた。頬に刺さるような視線を感じた高耶は、顔を背けて暗い窓の外を見つめた。
「……もう、私の顔は見たくない?」
「あたりまえだろ」
 短い返事は取り付く島もないほど冷たく簡潔だ。
「なら、そのままで聞いてください」
「いやだ。お前と話す事なんてないって、言ったろう?」
 吐き捨ててドアを開けようとする高耶の腕を素早く捕らえる。
「放せ!」
「ほんの少しでいいんです。私の話を聞いて」
「い、やだ……ッ」
 力に任せて振りほどこうとするのを強引に引き寄せて顎を掴み上げ、強引に唇を重ねた。
「ンン−−ッッ!」
 直江の胸に手を付いて必死に身体を離そうとするが、いつのまにかしっかり抱きすくめられてしまい動くことができない。しかも強引に侵入した舌に己のそれを絡め取られて口内を蹂躙されるうちに、身体の力が抜けて抵抗すら満足にできなくなってしまった。
 直江は程良く脱力した頃合いを見計らって唇を離し、腕の中の高耶を真っ直ぐに見つめた。
「あの女が言ったとおり、最初は貴方を利用して、ミホを諦めさせるための芝居でした」
 もう自分の感情を上手く隠せない高耶は、痛みを堪えるように顔を歪めた。罵倒の言葉すら出てこず、ただ直江を睨みつける。
「−−でも、いつのまにか貴方は私の心に深く入り込んで、支配してしまった。馬鹿な計画も、同性であることも、私にはもうどうでもよかった。……ただ、貴方が愛しくて」
 はっきりと感じ取ることのできる真実の想いがこもった言葉に答える声はない。ただ、震える指先で直江のスーツが皺になってしまいそうなほどぎゅっと握りしめている。
 一度は突き落とされた絶望の中で、夢のような直江の告白。高耶の心は嬉しさに震えたが、冷静な理性がストップをかける。
 どうせ、また嘘に決まっている。根っからの女好きのこの男が、自分なんかに本気でこんなことを言うはずがない。
 幾度も首を左右に振って直江の言葉を否定しようとする。
「……嘘は、もういらない」
「……今すぐに信じて欲しいとはいいません。でも、一度だけ、私にチャンスをください。もう二度と貴方を傷つけたりしないから、傍にいさせてください」
 高耶の心を癒すように、背中を抱いている手が熱い。
 信じたいと切望する気持ちが理性とせめぎ合い、苦しくて高耶は何も言えない。苦痛を堪えるように目を伏せて、眦に薄く涙を浮かべる高耶が痛ましくてならない。
 自分がここで高耶を諦めれば、彼の傷はいつか癒されるだろう。直江ではない、優しいどこかの女の手で。
 でも、それを考えると嫉妬に気が狂いそうになってしまう。
 もう、手放せない。
 今は苦しくても、直江のことが信じられなくても、いつか必ず彼の幸せな笑顔を取り戻してみせる。
 だから、逃げないで欲しい。
 切実な願いに応えるように、すがりつく手に力がこもる。
「……信じたい……でも、怖いんだ」
「……それでいいんです。今はまだ。……いつか必ず信じさせてみせるから。今はただ、頷いてみせて……?」
 抱き締めていた腕をといて、そっと頬を包み込む。頬を滑るように大粒の涙がこぼれ落ちたのと、高耶が小さく頷いてくれたのは、ほとんど同時のことだった。
「……高耶さん」
 そっと、触れあう唇。
 それは、約束の証。
 もう、貴方を傷つけない。手放さない。



 偽りから生まれた、真実の二人の物語は、まだ始まったばかりだ……。  

end



 和規さんからのリク作品「IMITATION CRIME」の後編をお届けいたしました。なんとか高耶さんを繋ぎ止めた直江に拍手! と言いたいところですが、身から出た錆なので、あまり同情できないな〜。でも、一応直江ファンなので高耶さんをしっかりつかまえていて欲しいと思います。
 和規さん、前編に引き続き、OKかな?

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