Written by とらこ
それは、朝から空が綺麗に晴れ渡った日のことだった。 直江はテラスの椅子に腰掛けて、読むともなく時折本を眺めながら、庭掃除をしたり、草をむしったりしてかいがいしく働いている高耶の姿を見ていた。 今日は、なんだかとても体調がいい。いつも死にそうな程悩まされる頭痛もないし、実に清々しい日だった。 でも、直江には漠然とした予感があった。 (……もしかしたら、今日かも知れない……) なんとなく、そんな気がする。 悪性の脳腫瘍と診断され、余命半年だと宣告されてから、もう一年が過ぎようとしている。 仕事を辞め、引き留める家族さえ捨てて、高耶と静かな山間部の町に移り住んで以来、直江にとってはこれ以上ないくらい幸福な日々だった。だが、その反面で高耶にはどれだけつらい思いをさせているのか、想像に余った。 愛しい者が日々弱り、死に近づいてゆく姿を見続けるのは、それこそ気が狂いそうな苦痛を彼に与えていることだろう。 だからこそ、自分の残された時間を知った直江は高耶と別れようと思った。傍に引き留めて、苦しんで泣く姿を見たくなかったからだ。だが、高耶はそれでもいいから最後まで一緒にいたいと言ってくれた。 その強い覚悟を示すかのように、それから高耶は決して直江の前では涙を見せなかった。どれだけ辛くても、いつでも笑顔を見せてくれる彼のおかげで、直江の心はどれだけ救われているかわからない。 絶望に満ちたまま終わるはずだった残された時間は、直江にとってかけがえのない大切な思い出になった。 こんなに穏やかな気持ちで死を迎え入れることができるなんて、考えもしなかった。 −−ただ、唯一の気がかりは、他でもない高耶のことだ。 直江が死んでしまったら、支えを失った高耶はどうなってしまうのか? 今こそ直江のために必死に気を張っているが、いなくなってしまったとたん、張りつめた糸が切れるように生きる気力を失ってしまうかも知れない。 自分のことなど早く忘れて、幸せになって欲しいと願う反面、たとえ自分が死んでも彼だけは誰にも渡したくないと思っている自分がいる。 これまで一年もの間、高耶を縛りつけて苦しめ続けてきたというのに、それ以上のことを望む自分がとても浅ましい。 (……いや……) これ以上、自分勝手なエゴで彼を苦しめたくない……。 (……貴方には、この世界の誰よりも幸せになって欲しいから……) そう思い直して目を伏せたとき、ふいに高耶が声をかけてきた。 「直江? 具合悪いのか?」 「いいえ。今日は不思議なくらい体調がいいんですよ。……でも、どうして?」 目を開いてそう言うと、高耶は安心したように息を吐いた。 「そう。ならいいんだ。……なんか、顔色悪いからさ」 「大丈夫ですよ。すみません」 「オレの取り越し苦労なら、それでいいんだ。−−あ、そうだ。ちょっと出かけてくるけど、なんか用事とかある?」 「いいえ。特にありませんが……。どこへ?」 「ああ、ねーさんのとこに。畑の野菜分けてくれるっていうから。お前にいっぱい野菜食べさせて、元気になってもらわなきゃな」 ねーさんと高耶が呼んでいるのは、直江の友人でこの家を探してくれた門脇綾子という女性のことだ。本人はここから少し離れた観光地の一画で小さなペンションを経営している。 「そうですか。綾子にはよくお礼を言っておいてください。私の分も」 「わかってる。じゃあ、すぐ戻るから。具合が悪くなったら無理しないでベットにいけよ」 「わかっています。……高耶さん、気をつけて」 微笑む直江に安心して、高耶は外出していった。 それから直江は目を伏せてしばらくうつらうつらとしていたが、不意に頭部に激痛を感じて目を見開いた。 「……ッ!」 声も出せないくらいの痛みは、普段のものとは比べものにならない。額に脂汗が滲み、見る間に雫となって伝い落ちる。呼吸さえも苦しくなって、直江は肩を使って荒い息をしながら頭を抱え込んだ。 「……た、か……や……ッ!」 必死に愛しい人の名を呼ぶが、急速に意識が遠のくのがわかった。 一瞬とも永遠ともつかない時間の中、今までの高耶との想い出が走馬燈のように脳裏に甦る。 最後に、高耶の笑顔が浮かんで霧のように消えた。 今この瞬間に高耶がこの場にいなくてよかったと、苦痛さえ遠のいた意識の中で直江はそう思った。 最後の最後で、彼の泣き顔を見なくて済んだから……。 貴方には、ずっと暖かな笑顔でいて欲しいから……。 どうか、私がいなくなっても泣かないで……。 私の魂は、ずっと貴方の傍にいるから…… * *
……高耶、さん……。 「直江?」 風がさわり、と吹き抜けた瞬間、直江の声が聞こえた気がして高耶はなにげなく背後を振り向いた。 だが、当然のことながら誰もいるはずがない。直江は今は小康状態を保っているとは言っても、もう自由に外を出歩ける体ではないのだから。 「高耶? どうかしたの?」 「……ねーさん。今、誰か呼ばなかった?」 「ううん。なんにも聞こえなかったけど……?」 綾子が首を傾げた瞬間、心臓を貫かれるような痛みが走った。 「……っ」 なんだろう、これは? 心臓に風穴が空いたような、この途方もない喪失感は? ざわり、と嫌な予感がして、高耶は立ちあがった。その蒼白な顔色を見て、綾子も慌てて立ちあがる。 「高耶? どうしたの?」 「……直江。……まさか」 震える声で呟いたとたん、弾かれたように走り出す。 ただごとではない高耶の様子に、綾子も後を追って走り出す。 高耶ほど敏感ではないが、綾子もなんとなく嫌な予感がした。信じたくはないが、虫の知らせ、というやつは本当にあるのかも知れない。 (……冗談じゃないわよ! 直江! あたし、あの子の泣いてる姿なんか見たくないのよ!) −−だが、高耶と綾子の予感は不幸にも的中することになる……。 高耶より一足遅れて家の中に入り、人の気配のする庭の方へ向かった綾子が見たものは、テラスの椅子に腰掛けたまま、もはや冷たくなりかけた直江とその傍らに座り込んでいる高耶の姿だった。 「……直江?」 (嘘、でしょう……?) 「……直江、寝てるのか? 直江……直江……ッ! こんなの嫌だ……。返事、してくれよ。いつもみたいに名前呼んで……。直江……お願い、だから……ッ」 「高耶……。駄目よ……直江は、もう……」 穏やかな死に顔を覗き込みながら、必死に声をかける高耶をたまらず綾子が制止する。肩にそっと手を置くと、高耶はまるで小さな子供のように体を強ばらせてがたがたと震えていた。 「こんなの、嘘だ! 直江! 直江ぇぇッッ!」 悲鳴のような声を上げて叫び、不意にがくんと崩れ落ちる。とっさに抱きとめると、高耶はあまりのショックに意識を失ってしまっていた。 「……直江。……どうしたらいいのよ……?」 高耶にとって、直江の喪失はあまりにも大きすぎる。綾子では支えきれないことはわかりきっていた。 直江の死も勿論ショックだったが綾子にとっては高耶の方があまりにも痛々しくてならない。 とめどなくこぼれ落ちる涙が、抱えた高耶の頬を濡らしていた……。 * *
綾子からの連絡を受けて直江の家族が駆けつけ、遺体を引き取りに来たのは翌日のことだった。 高耶にしっかりと直江の死という現実を認識させるためにも、この土地で葬儀をして欲しいと綾子は言ったが、直江の家族は決して首を縦に振ろうとはしなかった。当然のことだろう。高耶と一緒にいるために直江は家族を捨て、そのせいで息子の死に目にさえ会えなかったのだから。 せめて三日間だけ、高耶が目覚めて最後の別れをするまで待って欲しいという懇願にはなんとか応えてくれたのだが、肝心の高耶が一向に目覚めないまま約束の三日間が過ぎ、直江の遺体も荷物も、何もかもが家の中からなくなってしまった。 そして、ようやく高耶が目覚めたのはそれから二日後のことだった。 が、意識は戻っても、高耶の精神は直江の喪失に耐えられず、現実のすべてを拒否していた……。 虚ろな瞳で虚空を見つめ、一日中座り込んでいる高耶の傍に、綾子は可能な限りついていた。 だが、綾子にも自分の生活や仕事がある。どうしても外せない用事ができて、綾子がいなくなったその時に事件は起こった。 綾子がいない間にふらふらとリビングに出てきた高耶は、何かを捜すように視線を彷徨わせ、ふとテラスに置きっぱなしになっていたイスに目を止めた。 風でゆらゆらと揺れるそれを見つめていた高耶の瞳に、激しい恐怖の色が沸き上がる。がたがたと震える体を両腕で抱き締めて、床の上に崩れ落ちた高耶は、甲高い声で何度も悲鳴を上げた。 「嫌……っ。直江……直江……ッッ! 直江が、いない……ッ! いやだああぁぁッッ!」 封じ込めていた記憶が一気に蘇り、無防備な高耶の心に直江の死という過酷な現実が突きつけられる。 「……いやだ。直江が、いないなんて……ッ!」 こんなに苦しいのに、残りの気が遠くなりそうなほど長い時間をひとりきりで生きていけるはずなんてない。 そう思った高耶は、反射的に拳で窓硝子を割っていた。そして、自分の血にまみれた硝子片で迷うことなく手首を切り裂いた。 (……直江。お前の傍に、行きたいんだ……) 次第に薄れてゆく意識の中で、高耶は直江の幻を見た気がした。 迎えにきてくれた。そう思ったのに。 直江は何故か、とても哀しそうな表情をしていた−− * *
あの時、発作的に自殺を図った高耶だったが、その後すぐに綾子が帰ってきたことで寸前で命を取り留めたのだ。しかし、当然のことながら命が助かったことを喜ぶはずもなく、高耶は隙をみては二度、三度と自殺未遂を繰り返した。 そんな時だった。 ふいに直江の兄だという人が高耶の元を訪れたのは。 すっかり痩せ衰えて、生きる気力をなくしている高耶を見て、その人は痛ましそうな表情をした。そして、一通の封筒を高耶に差し出した。 「……これは?」 ぼんやりとしたまま、何一つ喋ろうとしない高耶に代わって綾子が問う。 「……弟が、高耶君に残した手紙です」 「……っ」 「封筒には何も書かれていなかったので、勝手ながら中をあらためさせてもらいました。……どうか、読んでやってください」 手を伸ばそうともしない高耶に代わって、綾子がそれを受け取る。中を取りだして高耶の手に渡してやると、ようやくそれと綾子を交互に眺めてから、おもむろに読み始めた。 「……それを読んで、ここから弟の遺体を奪うように連れ帰ったことを後悔しました。自分の命よりも高耶君のことを大切に想っていた弟の気持ちを踏みにじるようなことをしてしまったと……」 『高耶さん この手紙を貴方が読む頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。 私に残された時間が少ないことを知った時、それでも最後まで一緒にいたいと言ってくれた貴方の気持ちに甘えてしまったことを許してください。 貴方につらい思いをさせるとわかっていても、その気持ちが嬉しかったから。 おかげで、この一年は私にとって一番幸福で大切な思い出になりました。 絶望に満ちていた私の心を救い、穏やかに死の瞬間を迎えることができるようにしてくれたのは、すべて貴方の笑顔のおかげです。 でも、私の前で笑顔でいるために、貴方がどんなにつらい思いをしていたのかと思うとたまらない気持ちになります。私のいないところでそっと泣いていたことも、知っていました。その細い肩を抱き締めて、どれだけ言葉を尽くして慰めても、私がいずれ死んでしまうという未来がある限り、貴方の苦しみを癒すことはできないのだと思うとかける言葉さえ見つかりませんでした。 あとに残してしまう貴方のことだけが、唯一の心残りです。 私にとって貴方の存在がすべてであるように、貴方にとってもそれは同じこと。その喪失を埋めることは、とても難しいでしょう。 もしかしたら、絶望した貴方は自らの命を絶つことを選んでしまうかも知れない。 それでも、私は貴方に生きていて欲しい。 私の分も生きて、世界の誰よりも幸せになって欲しい。 それが、私の最後の望みです。 私の魂は、いつも貴方とともにある』 直江の残した言葉が、高耶の中に染み込むのと同時に、見開かれた双眸から涙がこぼれ落ちた。 直江の死後、叫び半狂乱になることはあっても決して泣けなかった高耶の瞳から、とめどなく涙が溢れていた。 「……っ。なおえ……なおえ……ッ!」 それは、高耶の中に巣くう絶望を洗い流す涙だった……。 それから、高耶は変わった。 以前のようにとはいかないが少しずつ笑うようになって、元気を取り戻し始めたのだ。 もう、高耶の中に死にたいと思う気持ちはなかった。 そしてある日、綾子の経営するペンションで働きたいと言い出した。 直江との想い出が強く残るこの土地では、いつまでも忘れることができないだろうと心配して返事を渋る綾子に、高耶は淡く微笑みながら首を振ってみせた。 「オレは、一生かかったって直江のことを忘れたりしないよ。それがオレにとって不幸だなんて思わない。直江との想い出があるからこそ、オレはこうして生きていけるんだから」 「高耶……」 「直江の奴、手紙に書いてたろ? 魂はいつもオレと一緒にいるって。……それ、ほんとだなって思うんだ。オレが手首切った時、直江の幻を見たんだ。最初オレは迎えにきてくれたんだって思ったけど、直江はなんか哀しそうな顔しててさ……。直江のとこに行くっていうのに、なんでそんな顔すんだろうって思った。……でも、あの手紙を読んだ今なら、直江が哀しそうな顔をしてた理由わかる。直江は、オレに自分の分も一生懸命生きて欲しいからだって。−−だから、直江の想い出のあるここで、直江の魂と一緒に生きていきたいんだ……」 高耶の強い言葉に偽りはなかった。 綾子は溢れる涙を止めることができず、ぐしゃぐしゃな顔をして高耶にしがみついた。 「……わかった! そこまでいうならウチにおいで! その代わり、いっぱいこき使うからね」 「……ありがと、ねーさん」 それから数ヶ月が過ぎ、直江の死から早くも一年が過ぎようとしている。 まだ、思い出すとつらい時もあるけれど、高耶の中にある直江との想い出は、強く彼を支えてくれている。 (……直江。人が一生を過ごす数十年の時間なんて、天国の長い時間に比べれば一瞬みたいなものなんだろうな……) だから、もう少しだけ待っていて…… 一生分の思い出話をもって、逢いに行くその日まで…… END 55555HITの緋菜さんのリク作品をお届けいたします。 ……すみません。この作品に関して、私のコメントは書けません……。 |