出せない手紙

 
Written by とらこ

[前編]


 バイトが終わり、ようやくアパートに帰り着いた真夜中。
 何も来ていないだろうと思いながらもふと覗き込んだ郵便受けの中に、薄いピンク色の封筒を一枚見つけた高耶は、それを手にとって悲しそうに瞳を曇らせた。
 少女らしい丸みを帯びた、読みやすい綺麗な字で書かれた宛名。差出人は誰なのか、見なくとも高耶にはわかっていた。
 彼のたったひとりの妹−−美弥からのものだ。
 高校を中退して東京へ出て一年以上になる。面倒がって携帯電話も持たず、全く連絡していない。そんな兄を気遣う妹の手紙は半月に一度は届けられる。
 だが、高耶は封を切ることなく、棚の一番奥に目につかないように置かれていた手紙の束にそれを重ねて、再びしまい込む。
 読んだ跡が残っているのは、最初の一通だけ。
「……ごめん。美弥」
 いまはまだ、心が痛くて読むことができないから……。
 まだ、あいつのことを振り切れないから……。
「ごめん……」
 今も脳裏にまざまざと浮かび上がってくる姿に目を伏せる。
 高耶は部屋の壁に凭れて床の上に座り込み、膝を抱え込んだ……。


*  *


 直江と最初に出逢ったのは、二年前のことだった。
 高耶は十七歳。彼が二十八歳の冬。
 学校が冬休み中のある日、部活動のために学校にでかけた美弥から、忘れ物をしたから届けて欲しいと電話が入った。
『ごめんね、お兄ちゃん。もうバイトに行く時間なんでしょ?』
「どうしても必要なんだろ? いいよ。どうせ行く途中だし。これから持っていく」
『ありがとう、お兄ちゃん!』
 美弥の忘れ物とは、一冊の本だった。先生から借りたらしいが、その先生がどうしても今日、その本を使いたいと言ってきたらしい。高耶はそれを適当な袋に入れて持ち、バイクで家を出た。
 ほどなくして学校に着き、校門の外にバイクを止めて校舎の方へ歩いていくと、出入り口からひとりの若い男が出てきた。長身で、色素の薄い鳶色の髪と瞳を持った、まるで俳優といっても頷けるような整った顔立ちの男。
 それが、直江だった。
「美弥さんのお兄さんですね?」
「そうだけど……あんたは?」
「ああ。私は部活動の顧問をしている直江といいます。よろしく」
「……あんた、先生か?」
 高耶は意外な思いを隠せずに言った。
 美弥の部活動の顧問ということは、当然高耶の風評のことも知っているはずだ。反抗的でどうにもならないクズ、というのが教師達の統一した意見だ。
 普通の教師なら高耶に対してこんな態度は取らない。まるで害虫を見るような目つきで、邪険な応対をしてくるのが常だ。
 高耶の戸惑いを感じ取ったのか、直江は小さく笑って見せた。
「人の噂ほどあてにならないものはありません」
「……ふうん」
 あまり信じていない様子で頷く高耶に、直江は苦笑した。
「私が見るところ、貴方はとても素直で、美弥さんにとっては優しいお兄さんですね。他の人に対してはちょっと不器用なところがありますが」
「……あんた、目がおかしいんじゃないのか? オレのどこを見れば素直だなんて言葉が出てくるんだよ?」
 高耶が呆れてそう言った時−−
「お兄ちゃん、ごめーん!」
 ばたばたと騒がしい足音とともに、美弥がこちらに駆け寄って来るのが見えた。が、高耶の隣にいる人物を認めてぴたりと足を止め、うっすらと頬を上気させた。
「あ! 直江センセイ……」
「美弥さん。廊下を走ってはいけませんよ。……それと、ちゃんとお兄さんにお礼を言うんですよ」
「はあい。ありがとう、お兄ちゃん。その本、直江先生に借りた本なの」
「え? そうだったのか」
 美弥に手渡した本は、そのまま直江の手に渡される。
「先生もありがとうございました。すっごく面白かったです」
「そう。それならよかった」
 美弥と直江は互いに見交わしあい、にっこりと微笑んだ。高耶はそれを見て妙な感覚に囚われる。
 二人の間に流れる空気は、普通の教師と生徒にしては親密で、なんだか居心地が悪かった。
「じゃあ、オレはもう行くから」
「うん。ほんとにありがと。お兄ちゃん」
 明るく笑って手を振る美弥に背を向け、足早に校舎を出る。
 その時はただ単にちょっと馴れ馴れしい美弥の部活動の顧問、という認識しかなく、高耶は既に生まれはじめていた自分の気持ちにまったく気づいていなかった。
 彼が自分の心を知り、はっきりと自覚するのはこの三ヶ月後のことである……。


*  *


 それから五回。直江と街で偶然出会い、たあいのない会話をかわしたり、時には喫茶店に入ってしばらく話をしていたこともあった。
 直江の傍は何故かとても居心地のいい、安心できる空間だった。すべてのわずらわしい虚勢や強がりを脱ぎ捨て、素のままの自分でいられた。
 それでもまだ自分の気持ちをはっきりと認識していなかった高耶は、ある日偶然目撃してしまった光景に愕然となった。
 その日の夕方。バイト帰りにとあるマンションの前を通りかかった時−−
 何気なく視線を走らせた建物の入り口のところに、見知った人物を見つけた。
(……美弥? なんでこんなところに……?)
 そして、彼女の傍らにはもうひとり……。そちらの方にも高耶は見覚えがあった。
 背中をこちらに向けているが、長身のその姿を見間違うことなどなかった。
(……直…江……?)
 彼はおそらく、このマンションに住んでいるのだろう。そして美弥は、授業でわからないところでもあって、それを聞きにきたのだろう。あくまでも教師と生徒。
 沸き上がってくる嫌な予感を押し殺して、高耶はそう解釈しようとした。
 −−しかし
 美弥の笑顔に直江の顔が次第に近づいてキスをした瞬間、胸に走った鋭い痛みに高耶は表情を歪めた。
 そして、唐突に己の心を悟った。
(……嘘だ。こんな気持ち、あり得ない……!)
 ひどく狼狽しながらも、この場を立ち去らねばならないと思い、じりじりと後退しはじめたが、運悪くこちらに顔を向けていた美弥と目が合ってしまった。
「……お兄ちゃん!」
 焦ったような妹の声に、我知らずびくりと肩が震えてしまう。
「……美弥」
 直江も弾かれたようにこちらを振り向いた。高耶の姿を見て、驚いたように双眸を見開く。
 誰も何も言えないまま、沈黙が三人の間に流れ、気まずい空気が漂う。
 何か、言わなければ。
 兄らしい言葉。でも、何を?
 迷っているうちに口の中が乾いてくる。開きかけては閉じて、何度か繰り返しているうちに、美弥の方が口を開いた。
「……お兄ちゃん。あのね……」
「……美弥。お前」
「見られちゃったなら、しかたないし。言ってもいい? 先生」
「……ですが」
 直江の言葉はいつになく歯切れが悪い。当然のことだ。自分の教え子−−しかも中学生の女子生徒とつき合っているなんて世間にばれたら、とんでもないスキャンダルになってしまうのだから。
「でも、お兄ちゃんなら信用できるし」
「……美弥さんが、そう言うのなら」
 直江の了解を得て、美弥が再び口を開く。
「……あのね」
「言わなくていい!」
 とっさに美弥の声を遮るように叫んだ。
 これ以上、この場にいるなんて耐えられない。
 美弥自身の口からはっきりと現実を突きつけられてしまうのが、たまらなく嫌だった。
 美弥の、妹の恋人を好きになってしまったなんて−−
「……オレは何も見てない。それでいいだろう?」
 苦痛に表情を歪め、不自然に顔を逸らす高耶。二人は尚も何か言いたげだったが、高耶はそれを振り切るように駆けだした。


*  *


 それから一週間。譲のところに泊まり込んで家には帰らなかった。とても美弥の顔を見れるような心境ではなかったのだ。
 全部、諦めろ。それが一番いい方法だと必死に自分に言い聞かせ、落ち着いた頃合いを見計らって家に帰った。
 一週間ぶりに玄関を入ってきた高耶を見ると、美弥は何か言いたげに口を開きかけたが、ちょうどよく父親が帰ってきたので結局何も言えなかった。
 夕食を終えると高耶は自分の部屋に引き籠もり、膝を抱えて座り込んでいたが、ふいにドアを叩く音にはっとして顔を上げた。次にかちゃりとドアが開いて、美弥が中に入ってくる。
「お兄ちゃん。お風呂あいたよ」
「……ああ」
 美弥はそれだけ言って出ていこうとしたが、ドアに手をかけたところで思い直し、高耶の方を振り返る。そのひたむきなまなざしが、胸に突き刺さる。
「……あの、お兄ちゃん。美弥ね、直江先生のことが好きなの。……先生も同じだって言ってくれて……つき合ってるの」
「…………っ」
 決定的な美弥の一言に、息が止まりそうになる。それでも必死に平静を装い、高耶は黙り込んでいた。
「……せめて美弥が卒業するまでは、このこと誰にも言わないで。……お願い、お兄ちゃん」
 胸が潰れそうな想いが高耶を苛んだが、大事な妹の切実な言葉にどうして否と言えるものか。
 自分の感情を押し殺した無表情で、高耶は深く頷いた。
「……わかってる。心配すんな」
「……ありがと、お兄ちゃん」
 ほっと息をついた美弥が嬉しそうな笑顔で部屋を出ていく。高耶は己の浅ましい感情を無事に隠し通せたことに安堵して、深く息をつく。
(……大丈夫。美弥のためなら……)



 それから改めて直江のことを思い切る決心をした高耶だったが、安心しきった美弥が今度はあれこれと直江とのことを話し、相談しにくるようになったことが新たな苦痛を生んだ。
 予想もしなかった事態に高耶は苦しんだ。
 話を聞いていれば嫌でも直江のことを思い出さずにはいられない。美弥と直江の幸福そうな様子を聞かされて苦しいだけならばまだしも、胸を突き上げてくる嫉妬に駆られて、美弥のことを一瞬でも憎いと感じてしまった自分に気がついた瞬間−−
 もう、二人の傍にはいられないと高耶は思った。
 学校もバイトも辞め、手紙だけを残して家を出たのは心を決めてから三日後のことだった。
 昼間、誰もいない家に戻って簡単に荷物をまとめ、駅へと向かう。切符を買って改札をくぐり、二度と戻らないつもりの道を辿る。
 高耶は、二度と振り返ることはなかった……。


*  *


 東京に着いて早速、住むところと仕事を決めてから、一度だけ家に手紙を書いた。
『心配しなくていい』
 −−ただ、ひとこと。
 そんなことを言われても、美弥が納得するわけがないと知っていたくせに。
 それから一度も連絡しないのは、もしかしたらささやかな美弥への復讐なのかも知れないと思う時がある。
 自分は永遠に知ることのない、直江に愛される甘美な幸福を知る彼女への……。
(……そんなのは、嘘だ……!)
 己の浅ましさを認めたくない一心で、すべてを打ち明けてしまおうと手紙を書いたこともある。
 自分の想いのすべて−−
 だが、それを美弥が知ったら、彼女は更に苦しむことになるだろう。
 思い悩んだ末に、その手紙は結局出せないまま、引き出しの奥にしまわれている……。


 −−そして、時が過ぎてゆく……。 



to be continued



 45000HITの香夜さんのリク作品をお届け致します。う〜ん。なかなか神様がアイディアを下さらなくて、時間がかかってしまいまして申し訳ありませんでした。しかもこの高耶さん、なんだかすご〜〜くマイナス思考……。あう。
 アンハッピーもOKとのことでしたが、一応ハッピーエンドにはまとめるように現在後編を書いております。
 もう少々お待ち下さいませ〜(逃)


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