Written by とらこ

 人気のない夜の構内−−
 レポートのチェックをしていて帰りが遅くなった直江は、廊下でかすかなピアノの音を聴き拾って足を止めた。
 時計に目を落とせば、針は午後の九時過ぎを指している。
 生徒はもうとっくの昔に全員帰ってしまったものと思いこんでいた直江は、そのピアノの音に誘われるようにそちらの方へと足を向けた。
(ピアノ科の教授か?)
 そう思いながら近づいてゆくにつれて、なんの曲を弾いているのかわかってきた。
(これは……ベートーベンか)
 生徒にしては熟達した見事な演奏なので、やはり教授の誰かだろうと思った。その部屋の前に辿り着き、少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込んだ直江は目に飛び込んできた光景に驚き、目を見開いた。
 窓から差し込む月の光を浴びながら、一心不乱にピアノを弾いていたのは、まだ年若い青年だった。
 まるで無意識のようにすべらかに動く指。すっかり曲の世界に入り込んでいる表情は陶然としていて、この上なく美しい。
 それでなくとも人目を惹いてやまないこの美貌の青年の名を、学科は違えど直江は知っていた。
 −−仰木高耶。
 天才の名を欲しいままにした往年のピアニスト・上杉謙信にその実力を認められて養子になった青年だった。教授達をも唸らせる実力こそ折り紙付きだったが、社交的な性格ではないらしく、いつもひとりでいるところしか見かけたことがなかった。大学内の演奏会でみんなの前でピアノを弾いたときも、感情という感情をまったく見せない鉄面皮で淡々と譜面を辿っていた。豊かな表現力を必要とされるピアニストにとっては、最大の弱点だなと直江は思ったものだ。
 しかし、今の彼はどうだろう。あの時の鉄面皮がまるで嘘のように、曲に陶酔しているではないか。
 直江は我を忘れてその光景に見入っていた。
 仰木高耶という青年に、心を奪われた瞬間だった……。


 −−テンペスト


 胸の中に、嵐が起こった……。


*  *


 あの夜から、早くも一週間が過ぎようとしていた。
 構内を歩いていると、我知らず高耶の姿を捜している自分に直江ははっきりと気づいていた。
 当然のことながら、突然訪れた恋に、最初は戸惑った。
 女性とならば人並みにつき合ったことはあったが、正真正銘のストレートの自分が、まさか同性に対してこんな感情を抱くとは思ってもみなかったからだ。
 しかし、こうなってみれば男や女の境界など、くだらない、どうでもいいことのようにさえ思えてくる。
 人が、人に惹かれることに理由なんかない。
 高耶に、逢いたい。
 逢って話をしたい。
 だが、直江はヴァイオリン科の助教授で、一方の高耶はピアノ科で、学科が違うせいもあり、あの夜以降、彼の姿を見つけることが出来ずにいた……。



 その日の昼下がり。
 午後の講義がなかった直江は構内のカフェ・テラスで本を読みながらコーヒーを飲んでいた。そこへ数人の学生がガヤガヤと騒ぎながら入ってくる。
「おい。知ってるか? あの仰木が大学辞めるんだってよ」
「仰木って、あの?」
 突然耳に飛び込んできた高耶の名と、とんでもない言葉に思わず顔を上げる。
「そ。あの仰木だよ」
 天才ピアニスト・上杉謙信の養子という肩書きは高耶の上に重くのしかかり、得てして他者のやっかみの対象となる。彼らの言葉にもそれがありありと表れていた。
「あ〜。しょうがねぇんじゃね〜の? だってさー、仰木って確かにピアノは上手いけどさ、なんか足りねぇんだよな」
「そうそう。い〜っつも無表情ですましててさ。まるで人形がピアノ弾いてるみてぇなのな」
「あの上杉謙信の後継者っつーには役不足だよなァ」
 嫉妬にまかせて言いたいことを言っている学生達に、無性に腹が立つ。
(何も……何も知らないくせに)
 本当の彼の姿を、何一つ……。 
 しかし、心のどこかでそんな彼らに優越感を感じてしまうのを否めない。
 自分だけが、彼の本当の姿を知っている……。
 だが、今はそんなことよりももっと重要なことがある。
 直江は注意深く彼らの言葉に耳を澄ませた。
「本当に辞めんのか?」
「そうみたいだぜ。さっき北条教授のところでそう話してるの聞いちまったんだ」
 ピアノ科の北条教授といえば、高耶に御執心なことで有名だ。きっと今頃必死になって説得を試みているに違いない。
 今から教授のところへ行けば、彼に逢えるかも知れない。
 そう思うと居ても立ってもいられなくて、直江はさっさと本をたたんで立ち上がった。ふいに直江が動いたことで一瞬、学生達の会話が途切れたが、素知らぬ顔をして歩いていくと、すぐに他愛のない話が再開される。


 そして、直江の足は真っ直ぐに北条教授の部屋へと向かう−−


*  *


「仰木君! 待ってくれ。どうか考え直して……!」
 初老の男−−北条教授の縋るような声を振り切り、ぱたんとドアを閉めて廊下に出る。
(……誰がなんと言おうと、オレの気持ちは変わらない)
 ひとつ、大きくため息をついてから歩き出し、何気なく前を見上げたその時、こちらへ向かって歩いてくる鳶色の髪の若い男と目があった。
 学科は違うが、女性達に多大な人気のある若い助教授・直江信綱の名ぐらいは高耶も知っていた。
 直江はそっと微笑してみせると、高耶に近づいてきた。
「仰木、高耶さんですね?」
「……あんた……ヴァイオリン科の……」
 呆然としている高耶に、直江は小さく頷いた。
「そうです。直江と言います」
「色男の助教授さんが、オレに何の用だよ?」
「……少し、お話をしませんか?」
 面と向かって会ったのは今日が初めてのこの男が、自分に一体何の用があるというのだろう?
 その意図がわからず、正直困惑したが、取り立てて断る理由もない高耶は訝しみながらも曖昧に頷いた。
「……いいけど」
 すると、直江はこの世の春が訪れたかのように、嬉しそうに微笑んだ。
「では、ここではなんですから……。私の部屋にでも」


*  *


「どうぞ。そこのソファに座ってください」
 直江の私室はヴァイオリン科教室の並ぶ西棟の外れだった。中にはいると直江は高耶に座るように勧め、自分はコーヒーを入れるために壁際の棚の前に立った。そして、程なくして香ばしい匂いを辺りに漂わせるカップを手にして、高耶の方を振り返る。
「どうぞ。インスタントで申し訳ありませんが」
「いいよ。別に」
 コーヒーの種類やら何やら、特にこだわりがあるわけでもない高耶は素っ気なくそう言ってカップを受け取ると、ひとくち口に含んだ。
「んで、話って何?」
 砕けた口調でいきなり切り出されて、直江は苦笑する。
 そして、彼と話をしたい一心で声をかけたものの、一体何を話せばいいのかわからないことに気がついた。しかたがないので、とりあえず先ほど耳にしたばかりの話を切りだしてみる。
「……学校を、辞めるそうですね」
 静かな言葉に高耶は驚いたように目を見開き、そしてすぐにバツの悪そうな表情になる。
「……立ち聞きしてたのか?」
「いえ。カフェ・テラスに来た学生達が話していたので……」
 直江の返答に、高耶はああ、と納得して頷いた。
「……そっか。もう噂になってんのか」
 おもしろおかしく話している彼らの様子が目に浮かぶようだった。自分の評判があまり芳しくないことを知っている高耶は、寂しげに苦笑した。
「どうして……?」
「どうしてって……」
 真摯な眼差しで自分を見つめ、問いかける直江に何故か答えを拒絶できない。雰囲気に流されるように、高耶は口を開いた。
「理由は色々。……言葉にするのは、ちょっとむずかしい」
 複雑な面持ちで俯く高耶の様子はどこか頼りなさげで、直江は思わず抱きしめたい衝動にかられる。
「……ピアノを弾くことが、嫌になったんですか?」
「……まさか。ピアノは……好きだよ。……でも」
 それ以外の、高耶を取り巻く環境が、彼をこれほどまでに苦しめているのだと直江にはわかった。
 心ない嫉妬から生まれる陰口や中傷。北条教授を始めとする周囲の過剰な期待。上杉謙信の養子としても重圧は、直江の想像に余る。高耶がそれらに傷ついて、すべてを放り出したくなったとしてもしかたのないように思えてくる。
 しかし、直江は高耶にピアノを辞めて欲しくはなかった。
 あんなに綺麗なピアノを弾ける人なのに。
 こんなところで潰されていい人じゃない。
「私がこんなことを言うのもなんなんですが……。できれば、辞めないでください。貴方の本当の気持ちをわかってくれる人だって、きっといるはずです。−−それに、貴方のピアノはあんなに美しく人の心を惹きつける力を持っているのだから……」
 直江の言葉が語る演奏が、以前に学生や教授達の前で見せたものではないことは高耶にもすぐにわかった。あの時の演奏は自分で思い出しても最低なものだったと思っているからだ。
 人前でそんな見事な演奏をしたことがあっただろうか?
 不思議な顔をする高耶に、直江はふわりと微笑んだ。
「……一週間前。月の光の中で、貴方はピアノを弾いていましたね。私の心を引き攫った嵐(テンペスト)を−−」
「…………っ」
 もう皆帰ってしまって、誰もいないと思っていたのに。
 あの演奏を見られていたなんて。
「見てたのか……」
「すみません。悪いとは思ったんですが……。声をかけられなくて」
 すまなそうに苦笑する直江を見ていると、なんだか怒るに怒れない。
(……ヘンな奴)
「……あの時の貴方の演奏は、とてもすばらしいものでした。−−なのに、どうして辞めてしまうんですか?」
 直江の問いかけに、高耶は表情を曇らせて俯く。
「……養父さんが……」
「上杉氏が……?」
「無理にピアノを続けることはない。お前の本当に好きな事は何か。やりたいことは何かを考えなさいって、言ったんだ……」
 高耶には、それが上杉謙信の失望の言葉に聞こえた。
 どうして? 今更?
 その疑問だけがぐるぐると頭の中を駆けめぐって、どうしようもなくなった。
「“お前には失望した”って言われたのも同然だろ? ……なのに、どの面下げてピアノなんか弾いてられるんだよ? −−だから」
 あのテンペストが、最後なんだ……。
 そう言った高耶の瞳が、哀しげに揺れる。
 しかし、直江は首を横に振った。
「……私は、そうは思いません」
「……?」
「近頃の貴方は“上杉謙信の養子”という肩書きに振り回されて、自分自身を見失っていたんじゃないんですか?」
 人を寄せつけない無表情は、自分を取り巻く様々な感情から自分自身を守るために生み出された仮面なのだ。
 直江はそれをようやく理解した。
 本当の彼は、こんなにも怯えて隠れてしまっていたのだ。
「上杉氏はくだらない肩書きを取り払って、もう一度自分自身を見つめ直しなさいという意味で、そうおっしゃったのではないのですか?」
 −−もう一歩、前へと進むために……。
「貴方の実力は本物だ。でも、それを表現する貴方の心は周囲の抑圧に負けてしまっていた。−−だから、失ってしまった自分を取り戻して、更に誰にも屈しない強さを身につけさせるために、あえて冷たいことをおっしゃったのではないのですか?」
「…………」
 直江の真摯な言葉に、高耶の瞳が揺れる。
 ……そうなのだろうか?
 それとも、直江の言ったことが養父の本当の意志なのだと、自分が信じたいだけなのか。
 ピアノは、好きだ。
 本当は、辞めたくなんてない。
 −−でも
(……“でも”どうだっていうんだ?)
 ふと、高耶は思う。
 周囲のくだらない声に己を失い、今度は養父の言葉一つですべてを捨て去ろうとしている。
(……違う。こんなのは“オレ”じゃない)
 いつから、こんなに弱くなってしまっていたのだろう?
 直江の言葉で初めて気づかされた高耶は、そっと目を伏せて軽く首を振った。
 そうだ。
 養父はそんな高耶の様子に気がついて、ワザと突き放すようなことを言ったのだ。その証拠に、あの時の養父の瞳は、とても優しい色をしていたではないか。
 そんなことにも気づけないほど、自分はすっかり後ろを向いてしまっていた……。
 高耶の瞳から寂しげな色がすぅっと消えて、強い輝きが宿る。その様子をじっと見つめていた直江は、おもむろに口を開いた。
「……どうです? 何か思い当たることがあったんでしょう?」
「……ああ。全部あんたの言うとおりだ、きっと。オレはいつのまにか養父さんの心さえも、歪めて受け取っていた……」
「では……」
 僅かに目を見開いて、自分の思いを確認するように問う直江に高耶は力強く頷いてみせた。
「ああ。ピアノは辞めないよ。……オレの好きなことなんて、やっぱりピアノしかないし……」
 すっかり不安の拭い去られた穏やかな表情でそう言った高耶は、小さく笑って直江を見つめ返す。
「……でも、あんたってヘンな奴だな。……どうして、オレのことなんかにそんなに真剣になるんだ?」
 北条教授のように同じ学科でもなく、ましてやほとんど面識のない、たかが一学生のことに、こんなに心を砕いてくれるなんて……。
(……それに、な〜んかコイツの傍にいると、調子狂うよなァ)
 必死に覆い隠していたはずの本当の自分の姿を、あっさりと見抜いた上に、心を覆っていた殻までいとも簡単に剥ぎ取ってしまった。
 彼が傍にいると、なんだか自分の表面を取り繕うことができない。素のままの自分が、いつのまにか顔を出してしまう。
 どうしてなのか、わからない高耶は不思議そうな顔をして直江を見つめている。直江は小さく、くすりと笑って言った。
「……それは、貴方のことが好きだからです」
 自分でも口にしてしまってからはっとなる。
「…………」
 こんなに唐突に、言うつもりじゃなかった。
 もっと親しくなってからと心を抑えていたのだが、つい堪えきれずに口をついて出てしまったのだ。
 気持ち悪いと拒絶されてしまうことはとても怖かったが、それでも直江は高耶から視線を外さずに、黙って切ない眼差しで見つめる。
「……好きって……その……」
 友人のように、という意味なのか。それとも異性に対するものと同じ気持ちなのか。直江の心を計りかねた高耶は戸惑った。
「……私も、こんな気持ちは初めてなんです。……こんなに、ひとりの人を愛しいと……慈しみたいと思ったことはありません」
 直江の真摯な瞳に見つめられて、高耶は胸の奥がきゅっと切なくなるような思いを覚えた。
 気持ち悪いとは、不思議と感じなかった。
「……嫌……ですか?」
 落胆したような低い声色に、慌ててブンブンと首を振る。
「嫌……じゃないよ。嫌いじゃないけど……」
 正直、どうしたらいいのかわからない。
 直江のことをまだ何も知らないのに等しいし、今すぐに答えを出すことなんて到底できなかった。
 そんな高耶の胸中を察して、直江はそっと微笑んだ。
「答えを今すぐに欲しいとは言いません。……ゆっくりと、私を知ってから……」
 できれば、色好い返事を期待したいけれど、と言外に匂わせながら言葉を続ける。
「とりあえず、友人としておつき合いしていただけると嬉しいんですけれど……」
「……うん。いいよ……」
 高耶も、このまま直江との繋がりを切ってしまいたくなかった。
 直江のことが、もっと知りたい。
 頷いて、おずおずと見返す高耶の瞳に、優しい直江の微笑みが映る。


 ふわり、と心に風が吹き込む−−


 テンペスト−−


 高耶の心を攫ってゆく、静かな嵐の予感がした……。 


 
 
END



 15723HITをGETされた佐姫れんさんのリク作品をお届け致します。
 ピアニストな高耶さんに恋する直江というリクエストでしたが……大丈夫でしょうか(どきどき)
 音大の仕組みや資料なんて、当然ないのでアチコチ突っ込みどころ満載かとは思われますが……黙殺してやってくださると嬉しいです。


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