Written by とらこ


第一話


 午前三時。
 未だに耳慣れない波の音で目覚めた高耶は、ベットサイドの時計を見て深い溜め息をついた。
 この二ヶ月、ずっとこんな調子でよく眠れない。
(……慣れない海鳴りのせいかと思ったけど……そうじゃない)
 理由なんて、自分自身が一番良く知っている。ただ、誤魔化そうとしていただけだ。
 今、高耶がいるのは四国の高知県。
 海の傍のマンションにひとり……。
 −−そう。ひとり。
 直江は、いない。
 

 二ヶ月前に、二人は別れたのだ。


*  *


 最初のきっかけはごく単純なものだった。
 中途採用で新しく入社してきた、高耶より年上の女性秘書・浅岡麻衣子。いつもは直江の傍には高耶一人なのだが、風邪を引いて二、三日寝込んでいる間、彼女が高耶の代わりをしてくれていたのだ。
 ただそれだけなら、何の問題もないのだが、直江は誰もが好意を持つ容姿をしており、まだ若いのに橘不動産の東京支社長を務めるほどの男で、収入も勿論ばっちりな、女にとっては最高の相手である。麻衣子も例に漏れず好意を抱き、それを隠そうともしない。高耶が復帰してもなにかとまとわりついてアプローチをかけていた。
 なかなかそつなく仕事をこなす彼女を直江も信頼して色々と仕事を預ける。そのことが高耶の心を不安で波立たせていた矢先……。
 休憩中に珍しく秘書室にいた時、ふいに麻衣子が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、仰木君と支社長って、ど〜いう関係なの?」
「え……?」
 相手に聞こえてしまいそうなほど、心臓がどくんと大きな音を立てる。一瞬頭の中が真っ白になって硬直してしまう。口の中が乾いて、とっさに何も言えずにいると麻衣子は構わずに言葉を続けた。
「女子社員の間で噂になってるのよ。二人はアヤシイって。そうよね〜。いっつも支社長室でべったり二人っきりだし……知ってる? 直江支社長って仰木君がお休みした日ってすっごい機嫌悪いのよ。この間の風邪の時もそう。まるで仰木君が休んでるのは私たちのせいだ〜みたいに機嫌悪くて……。ねぇ、ホントのところはどうなの?」
(……噂に、なってるのか……)
 その事だけが高耶の頭の中を占めた。
 社内だけでは足りず、あちこちに噂が飛び火していくのは時間の問題かも知れない。そう考えると恐怖で目の前が真っ暗になる。
 自分のことではない。支社を束ねている直江にとっては、社会的な立場にも関わる重大な問題になってくる。
(……どうしよう……)
「……仰木君?」
 真っ青な顔をして黙り込んでしまった高耶を怪訝に思い、麻衣子が首を傾げる。
「……まさか。やだ、ちょっと……ホントなの?」
「……まさか。そんなわけ、ないですよ……」
 慌てて否定するが、感情を殺した声は一本調子でいかにも嘘臭い。だが、麻衣子は疑問に思わなかったようだった。安心したように笑って言った。
「そうよねぇ。……よかったぁ。ホントだったら、あたしじゃ仰木君に勝てないもんね。仰木君、綺麗だから」
 それからしばらく麻衣子は一方的に喋っていたが、高耶の耳には届いていなかった。
 この世の誰よりも、大切な存在。
 愛し、愛される喜びを、あの力強い腕が与えてくれるぬくもりを手放したくなどない。
 −−でも、それではすべてが駄目になってしまう。
(……別れる、なんて考えたくない……! でも……)
 心を蝕む、暗澹たる絶望の中で、高耶はぼんやりと考え続けた……。



 次の日の夕方。本社の色部専務が急遽支社を訪れた。お茶を飲みながら近頃の仕事の話をし、色部はおもむろに切り出した。
「直江。ものは相談なんだが……」
「なんですか?」
 いつになく歯切れの悪い口調に漠然とした不安を覚えて、直江は眉を顰めた。
「……仰木君のことなんだが……」
 突然自分の名前がでたことに、高耶は思わず肩をびくりと震わせた。昨日の休憩中に直江とのことが噂になっているという話を耳にしたばかりなので、胸中に抱えていた不安が一気に強まる。
「仰木君は優秀な人物だ。社長もそれはよくわかっている。……だからこそ、彼の将来のためにも、しばらく手元から離す気はないか?」
「……それは、どういうことですか!?」
 直江の語気が強まる。
「この間兵頭君が出向した四国のレジャーランドの企画があるだろう。社長はあれに仰木君を参加させて、経験を積ませたい意向らしい」
 仕事の話かと安心したのも束の間。仕事にかこつけて引き離そうとしているようにも受け取れる。誰も彼も疑ってしまうようなマイナス思考に陥っている自分がたまらなく嫌だったが、一度取り憑いてしまった考えを頭の中から追い出すことができない。
 一方、直江は突然の話に唖然となっていた。
 あのプロジェクトに参加するということは、高耶は少なくとも二、三年は四国へ行くことになってしまう。そんなこと、今の直江に承諾できるはずもない。
「冗談じゃありません! 仰木君がいないとこちらの仕事が止まってしまいます。到底承知できません」
 断固として言い募る直江に、色部はため息混じりに言った。
「取り違えるな。これは仰木君自身が決めることだ。−−仰木君。一応言っておくが、この話を断ったからといって君の立場がどうのということは一切ない。私も社長も君の才能は惜しいからね。ただ、君の将来にプラスになるだろうということで言っているんだ。そのことをよく考えて返事をして欲しい」
「……はい」
 普通ならば、迷う必要などない。俗に言う栄転というやつだ。プロジェクトが成功し、戻ってくればそれなりの地位が用意される。
 −−だが、そんなものよりも大事な、絶対に失えないものを高耶は見つけてしまった。
 直江と離れたくない……。けれど、今は状況が違ってきている。
 これは、自分に与えられた機会なのかも知れない……。
(……直江と、離れるための……)
 一通りの話を終えて色部が帰った後も、直江は憤然としていた。
「考えるまでもないことです。大体、向こうにはあの兵頭もいるんですよ」
 そのことを抜きにしても、高耶を行かせたくない。
 直江は高耶の沈んだ面持ちを訝しみ、覗き込むようにしながら抱き締めた。
「ねえ、高耶さん。四国なんかに行ったりしませんよね? ずっと私の傍にいてくれますよね? どうしても断りきれないなら、私が社長にかけあってもいい」
 同意を求めるように耳元に囁くが、期待していた答えはいつまでも戻ってこない。さすがに様子がおかしいと感じた直江は躰を離して高耶の顔を覗き込んだ。
「高耶さん?」
「……ないよ」
「え……?」
「……そんなこと、わからないよ。……直江」
 眉根に皺を寄せ、苦しそうな表情で絞り出すように言った言葉に直江はさっと顔色を変えた。痛いくらいの力で腕をつかみ、高耶を揺さぶる。
「どういう意味ですか? ……まさか、色部さんの話を受ける気じゃ……!」
「……そう、なるかも知れない……」
「…………ッッ!」
 顔を背けようとする高耶の顎をつかんで、強引に自分の方を向かせる。
「俺と離れて平気でいられるんですか!? 貴方は!」
 平気なんかじゃない! 思わずそう叫びそうになるのを必死で堪える。
 今の高耶には、社内でこうして直江の腕の中にいることさえ罪悪のように思われた。
(……そうだ。このまま別れてしまえば……!)
 とっさにそう思い極めた高耶は、力任せに直江の腕を振り払った。
「そんな、個人的なことで決めていいことじゃないだろう? せっかくオレのために言ってくれてるのに……」
 直江の双眸に怒りが閃く。
「……本気で、本気でそんなことを言っているんですか!? 本当に、平気だって言うんですか? 俺と離れていても!?」
「……っ。平気だよ……っ」
 言い放って、ぱっと顔を背ける。
 自分で言った言葉に、ざっくりと心が切り裂かれる思いがした。
 直江は自分と目を合わせようとしない高耶をきつく睨みつけると、突き放すように冷たい口調で言い放った。
「……なら、勝手にすればいい」
 そのまま、すっと高耶の横を通り抜けて支社長室を出てゆく。
 高耶は身を引き裂かれるような苦痛を必死に噛み殺して、唇をきつく噛みしめる。握りしめた拳は、白くなって震えていた……。



 ふらふらとおぼつかない足取りで高耶はそのまま秘書室に戻り、色部の携帯電話に連絡を入れて、承諾の意志を告げた。後日のミーティングで半月後には向こうへ行くことになり、後任を任せることになった麻衣子への引継がすぐに始まった。麻衣子は嬉しいという気持ちを抑えようともせず、無神経なまでの明るさで振る舞う。しかし、アパートの方も引き払うことになった高耶は忙しくて、それどころではなかった。逆にそのことが下手に感傷に浸る暇を与えず、高耶にはありがたかった。
 ほとんど直江に逢うこともなく、勿論話をする機会などもないままに半月があっという間に過ぎ去り、最後の日がやってきた。
 さすがに別れの挨拶くらいきちんとしようと思い、秘書室の机の整理を終えてから高耶は重い足取りで支社長室へと向かった。
 正直言って気まずいことこの上ない。しかし、自分の気持ちにしっかりとケリをつけるためにも、高耶は自分を叱咤しながらドアの前までやってきた。が、着いてみるとドアは半分開いていて、中から直江と麻衣子の話す声が聞こえてきた。くすくすと艶を含んだ麻衣子の笑う声。それがふいに途切れる。
(……まさか) 
 そう思いながらも、足音を忍ばせてそっと中を覗き込むと、二人が重なり合うようにしてキスをかわしている光景が目に飛び込んできた。
「……ッ!」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃に眩暈がした。
 こんなもの、見たくない。けれど、躰が動かない。
 そのうちに、こちらに顔を向けている直江が薄く目を開いた。
 二人の視線が、確かに交わる。
 それでも直江は行為をやめようとはせず、更に見せつけるように麻衣子の躰を抱き寄せて、より深く口づける。
 高耶は堪えきれなくなってぎゅっと目を伏せ、そのままきびすを返してその場から立ち去った。
(……これで、よかったんだ……)
 今はつらくても、きっと忘れられる日が来るから……。
 高耶は、二度と後ろを振り返らなかった……。 




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