Written by とらこ


第二話


 高耶が高知に来る。
 そのことを聞いた兵頭は、再び訪れたチャンスに並々ならぬ気合いを入れてその日を待ちわびていた。
 今度こそ、正々堂々高耶を手に入れる。
 −−しかし。
 支社長が朝礼で紹介した高耶の姿を見て愕然となった。
(……これが、あの仰木か?)
 あの時の、生き生きとした眩しい輝きが、どこにもない。まるで魂のない人形のようだと思った。
 あんな顔をして、こんなところに彼がひとりで来た理由はひとつしかない。
(……あの男と、別れたのか……)
 兵頭にとっては二度とないチャンスといえたが、今の彼を口説くのは弱みにつけこんでいるようで気が引けた。しばらくの間は様子を見ていようと決めて、あくまで同じプロジェクトに携わる同僚として接することにした。
 高耶が高知に来て二ヶ月。昼夜を問わず働く高耶のおかげで、プロジェクトは新しい改良を加えながら着々と進行していった。しかし、それに反比例するように高耶本人は窶れてゆく。他の連中は気がつかないが、だいぶ無理をしている。
 今日も、金曜の夜だというのにひとりで夜遅くまで居残ってパソコンの画面を睨みつけていた。見かねた兵頭はオフィスに戻り、高耶に声をかけた。
「もう上がれ。仰木」
「……兵頭さん……」
 ぱっと上げた顔に一瞬警戒の色が走る。以前彼にしたことを考えれば無理もない話だったが、兵頭は安心させるように言った。
「そんなに警戒しなくていい。もう、あんな真似はしない」
「……すみません」
 高耶は肩を落として謝る。その表情には、普段絶対に見せようとしない弱々しさがあった。直江とのことを知っている兵頭だからこそ見せた表情に胸を突かれる思いがした。
「飲みにでも行かないかと思ったんだが……」
「オレはいいです。他の人と行ってきてください」
 高耶はにべもなく断るが、兵頭は引かない。
「俺は、仰木と飲みたいんだ」
「……兵頭さん」
「……人に話せば楽になることもある。違うか?」
 他の人間だったら、あくまで断っただろう。だが、全部知っている兵頭になら、話ができる。そう思う気持ちが高耶を揺り動かした。
「……これからどこかの店に行くのもなんですから……。オレの部屋でいいですか?」
「構わない。ビールとつまみがあればな」



 二ヶ月前までの高耶ならば、あんなことをした兵頭を一人暮らしのマンションに入れようとは思わなかっただろう。
 −−ただ、ずっと胸の中にしまってきたことを全部吐き出してしまいたかった。そうしたら、少しは気が晴れるかも知れない。
 ……もしかしたら、もうどうなっても構わないと、自暴自棄になっていたのかも知れない……。
 二人はしばらくの間無言のまま、フローリングの床の上に座ってビールを飲んでいたが、おもむろに兵頭が口を開いた。
「……あの男と、別れたのか?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「でなければ、お前がそんなひどい顔をして、この俺のいるここへ来るはずがない。……何があった?」
 促されるままに、高耶は一ヶ月前のことをぽつぽつと語った。
 二人のことが噂になっていたこと。とっさに別れようと思い立ち、一方的に怒らせてそのままこっちに来てしまったこと……。
「……ほんとは、別れたくなんかなかった。……でも、あのまま一緒にいたら直江の立場が……。オレなんかどうなってもいいけど、直江だけは……」
 一度堰を切って溢れだした感情は、容易にはおさまらない。
「……直江と一緒にいられなくても平気だなんて酷いこと言ったけど、ほんとはもう限界なんだ。……元に戻れるならそうしたい……けど……」
「けど?」
 高耶の表情が見る間に歪み、泣き出しそうになる。その口元に浮かぶのは自嘲の笑み。
「……もう、戻れない。……直江はもう、あの女と……っ」
 まざまざと脳裏に甦るあの日の光景が高耶を苦しめる。
「……つらくて苦しくて、眠れなくて……。もう、死んじまう……」
 掠れた声で呟く高耶の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。片手で顔を覆い、声を殺して泣く高耶を兵頭はそっと腕の中に包み込んだ。最初は驚いて躰を強張らせたが、それ以上は何もしてこないのがわかったのか、次第に身体の力を緩めた。
 兵頭が与えてくれるぬくもりが否応なしに直江を思い出させて、また新たな涙が溢れだしてくる。
「……直江……直江……っ」
 高耶の唇から幾度も零れる別の男の名に、兵頭はこの上なく苦い思いを噛みしめる。
(……どうして……ここにいて、この細い躰を抱き締めているのは俺なのに……!)
 自分だけを見て、想いを返してくれるのなら、こんなに苦しい思いをさせたりはしないのに。
「……直江に……逢いたい……っ!」
 高耶を救えるのも、癒せるのも、たったひとりの男だけなのだと思い知り、兵頭はきつく拳を握りしめた……。


*  *


 直江の目の前で、麻衣子が不安そうな顔をして立っている。直江の手には彼女が作ったばかりの書類の束があり、確認をしてもらっているところだった。一通り目を通した直江は小さくため息をついて、冷たい視線で麻衣子を見た。そして、バサリと書類の束を突き返す。
「収支の計算が違っている。それと、誤字脱字が多い。急いで直してくれ」
「は、はい」
 青くなって書類を受け取り、足早に部屋を出てゆく。
「……まったく」
 今日の午後、会議で使うからといって作らせた資料だったが、あと一時間で始まってしまうそれには到底間に合わないだろう。
(……高耶さんの時にはこんなことなかったのに……)
 最初は仕事のできる女だと思った。しかし、実際に傍で使ってみれば杜撰な仕事が目立つ。しかもたった一度のキスですっかり直江の女気取りで、馴れ馴れしい態度が鼻につく。
 そう。あの時のキス。
 高耶がこの支社にいる最後の日。戯れに重ねただけだったのに、高耶に見られたことで憤る感情のままに、彼に見せつけるように濃厚なキスになってしまった。
 あのおかげで、高耶は何も言わずにここから去って行ってしまった。今にしてみれば、馬鹿なことをしたものだと後悔しか沸いてこない。あの時、高耶と話をしていれば、まだ二人を繋ぐ糸は切れていなかったかも知れないのに。
 だが、まだ彼に対して憤る気持ちもある。
 何故突然あんなことを言い出したのか、直江がいなくても平気だなんて言ったのか。
 四国行きの話の直後だっただけに、とっさに兵頭のことが頭に浮かんで邪推してしまった。
(高耶さんは、もう俺のことが嫌になったのか……? だから、あんなことを言い出したのか……?)
 そして、兵頭に乗り換えるつもりなのか?
 そう考えると腑が煮えくりかえるような怒りが沸き上がってきて、あんな言い方をして突き放してしまった。
 それからすぐに高耶が四国行きを決めたと聞いて、ますます怒りが募った。
 このまま別れてしまうつもりなら、それでも構わないとその時は思った。
 だが、こうしてすぐに高耶のことを考えてしまう自分がいる……。
(……今頃は、兵頭と一緒にいるかも知れないのに……)
 高耶はもう、三、四年は戻ってこない。その間に、二人の関係は戻れないところにいってしまうだろう。
 直江は軽く頭を振り、絶望的な思考を振り払った。
 


 それでも、頭の片隅に残った高耶の苦しそうな表情が消えない……。




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