Written by とらこ


第四話


「仰木! しっかりしろ!」
 意識を失ってぐったりとなった高耶の躰を、兵頭は慌てて抱き起こして揺さぶった。しかし、目が覚める気配はなく、そのうち横から伸びてきた手が掬い上げるように高耶を抱き上げ、兵頭ははっと顔を上げた。
(……直江ッ!)
 いつのまにかこちら側へ来た直江が高耶をしっかりと抱き上げて言った。
「彼は私が医務室に運ぶ。君は代わりに報告をしていてくれ」
 とっさに「俺が運ぶ」と叫びそうになったが、会社の重役達を目の前にして私情を優先させるわけにもいかず、兵頭は不承不承頷くしかなかった。
「……わかりました」
(……誰のせいでこんなことになったと思っている!)
 深い怒りを募らせる兵頭の胸中をよそに、直江はそのまま会議室を出て三階の医務室に向かった。
 たったの二ヶ月と少し。
 その間にひとまわりも痩せた高耶に直江は驚いていた。肉体的にも、精神的にも、すっかり弱っている様子が痛々しい。
 原因は、忙しい仕事だけではない。
 何がこんなに彼を追いつめているのか、わかりすぎるほどわかっている。
 直江と、あんな形で別れてしまったことだ。
 高耶はまだ、自分のことを愛してくれている。
 そう確信したのは、今日会議室へ入る前の高耶の目を見た瞬間だった。
 怯えと不安、そして、紛れもない嫉妬が瞳の中で複雑に揺れていた。
(……こんなになってしまうほど……どうして……)
 何故、あんな心にもないことを言って直江を怒らせてまで別れようとしたのか。
 その理由がわからない。
(……私は、貴方をこの腕の中に取り戻したい……)
 強い想いを込めて、直江は意識のない高耶の額に唇を落とした……。



 医務室のドアを開けると、病院のような独特の匂いが鼻につく。高耶を抱えて入っていくと、当直の嘱託医であった中川が驚いて言った。
「仰木さんじゃないですか! どうしたんですか、一体……?」
「会議の途中で倒れたんだ。早く診てやってくれ。中川」
「は、はい。じゃあ、そこのベットに寝かせてください」
 言われるままに、高耶の躰をベットの上に横たえる。
「ああ、上着は脱がせて。ネクタイも外して襟元を楽にしてあげてください」
「わかった」
 上着を脱がせてネクタイを外し、シャツのボタンを二つほど外してやると、高耶の白い喉元と鎖骨が垣間見えた。あれから誰も触れていないことを示すように、白い肌の上には何の痕跡もない。
 直江はすぐには会議に戻らず、傍らの椅子に座って中川が一通りの診察を終えるまでじっと見守っていた。中川は薬棚から透明な液体状の薬が入った袋を取りだし、チューブと針をつけて点滴を入れる。
「これでよし……っと」
 針が動かないようにテープで固定して、中川は息をついた。
「どうなんだ?」
 心配そうに尋ねる直江を安心させるように中川は笑ってみせた。
「大丈夫。過労と軽い貧血です。こうして点滴をしてしばらく安静にしていれば気がつきますよ」
「……そうか」
 ほっと胸を撫で下ろしたが、今度は中川のほうがいくらか険しい顔つきになって言った。
「……仰木さん。痩せましたね……」
「……そうだな」
「過労気味にしても、少し痩せすぎです。……何か、気に病んでいることでもあるんでしょうか……」
 独り言めいた中川の言葉には答えず、直江は椅子から立ちあがった。ドアを開けて出ていく直前に、一度だけ振り返った。
「私は会議に戻るが、終わったらまた様子を見に来るから。後は頼む」
「わかりました」
 医務室を出て、会議室に戻る直江の足取りは重い。
 本当は、会議など放り出してずっと高耶の傍についていたい。……でも、彼が目覚めた時、一体どんな顔をして会えるというのだ。
(……高耶さん)
 あの人の穏やかな笑顔が、とても遠い……。


*  *


 高耶が突然倒れて退出した後は、何の滞りもなく会議は進んだが、約二名は内心にヤキモキとした嫉妬めいた感情を抱え込んでいた。
 一人は言わずと知れた兵頭で、彼はそれでも平静を装い、高耶の分までしっかりと仕事をこなした。一方でじりじりしていたのは麻衣子だった。
 さっきの二人の間に流れた妙な空気といい、高耶が倒れた時の直江の素早い行動といい、心にひっかかってしかたがない。
(……まさか。仰木君はあの噂を否定したし、何より直江さんは今私とつき合っているんだし……)
 何も不安に思うことなど、何一つないはずなのに……。 
 麻衣子は自分の中に芽ばえた不可思議な感情を持て余し、今が重要な会議中であることさえも失念していた。直江がいないのでとりたててすることもなくぼんやりしていると、そこへようやく問題の男が戻ってきた。社長に向かって一礼すると、静かに自分の席に戻ってきた直江に麻衣子はすかさず小声で問いかけた。
「……仰木君は大丈夫だったんですか?」
「過労と軽い貧血だそうだ」
 そう答える口調は重い。何か考え込んでいて、麻衣子のことも、会議のことすら半ば忘れているような直江の様子にたまらなくなる。
「……直江さんは、どうしてそんなに仰木君のことを気にかけてるの? さっきだって、兵頭さんにまかせておけばよかったのに……」
 大事な会議の途中だったんだから、と付け加えようとしたが、それ以上口を開く前に直江に鋭い目で睨まれて麻衣子は動けなくなった。侮蔑も露わな視線だけで麻衣子を黙らせると、直江は低い声で言った。
「時と場合を考えてくれ。今は君と個人的な会話をする時間ではない。−−出ていきなさい」
 未だかつて聞いたことのない冷ややかな声に麻衣子は顔色を変えた。不用意な言葉が直江を怒らせてしまったことに気がついたがもう遅い。謝りたかったが、これ以上ここで何を言っても更に怒らせるだけだとわかったので、麻衣子は無言のままそっと会議室を出た。ぱたぱたと駆け去っていく足音が遠くなっていく。
 こんなところで何を言い出すかと思えば。非常識にもほどがあるというものだ。
 しかし、一時は憤然としていたものの、自分が麻衣子の言葉に腹を立てた本当の理由を考えると、一方的に彼女を責めたことに気が咎めてくる。
 高耶との間を詮索するような問いかけも勿論不快だったが、何よりも兵頭にまかせておけばいいのにと言った言葉が気に障ったのだ。
 あの男には、高耶に触れてもらいたくない。
 自分の中の浅ましい嫉妬を知られたような気がした。
(……時と場合をわきまえていないのは、俺も同じか……)
 だが、今更思い直したところで会議に集中できるはずもなく、ほとんど内容など耳に入らないままだった。
「では、今日の会議はこれで終わりにしよう。来年もよろしく頼むぞ」
 社長の一言で会議は終了し、各支社長や重役達はそれぞれに部屋を出ていく。直江も手元の配布された資料を整理して出ようとしたが、出口のところでふいに呼び止められた。
「直江支社長」
 挑戦的ともとれる声色の主は、言わずと知れた兵頭だった。
 睨みつけるように直江を正面から見据え、言葉を続ける。
「ちょっとお時間をいただけますか?」
 話とは何だと問うまでもない。
 直江は無言で頷くと、兵頭をともなって支社長室へと向かった……。 




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