Written by とらこ


第五話


「最低だな」
 支社長室のドアを閉めて二人だけになるなり、兵頭は開口一番そう言った。
「仰木の目の前で新しい女といちゃついてみせるかと思えば……。振り回される仰木の身になってみろ」
「浅岡君は関係ない」
「は! 関係ない女とキスしてみせるのか?」
 とたん、直江は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 なぜ、この男が知っているのか?
 答えはひとつ。高耶が話したとしか考えられない。
「……あいつがどんな気持ちでいたかも知らずに……!」
「お前は知っているというのか?」
「知ってるさ。仰木が全部話してくれた」
 瞬間、ずきりと胸が痛んだ。
「……まあ、聞き出せるようになるまで時間はかかったがな。あいつは誰にも何も言わず、ずっとひとりで抱え込んでいた。疲れて弱ってくるまで、聞き出すチャンスさえ掴めなかった」
「……それで、高耶さんはお前に何を言ったというんだ?」
 それを聞いて、兵頭は呆れたように一瞬目を細めた。
「……お前、本当に何も知らないんだな。……仰木は、お前のために別れる決心をしたのに」
「……な、に……?」
 直江は驚愕して声をうわずらせた。
(……俺のために……?)
「四国行きの話が出る前日に、あの浅岡とかいう女から聞いたそうだ。この会社の女子社員の間で、お前と仰木の関係が噂になっていると」
「……ッ!」
 直江にとっては寝耳に水な話だった。元々秘書以外の女子社員とはあまり会話をすることもないし、ましてそういうたぐいの噂となれば、直江の耳に入ることはまずないと言っていい。それは高耶も同様で、聞いた時は今の直江の比ではなく、さぞかし驚いたことだろう。
 そこから先、高耶が考えたことはもう、手に取るようにわかった。
 その噂が他社の人間や、この会社の上層部の人間に届いたら、直江の社会的な立場に影響が出ると考えたのだろう。翌日、色部が持ってきた四国行きの話をきっかけに別れようと思い極めてしまったに違いない。


『……そんなこと、わからないよ。……直江』


『……っ。平気だよ……っ』


 今更のように、あの時の苦しそうな高耶の表情や言葉が脳裏に甦ってくる。
 そんなこととは知らずに腹をたてた自分は高耶に何をした?
 麻衣子とのキスを見せつけて、彼を更に追いつめるように、別れの言葉さえ言わせずに四国に行かせてしまった。
 高耶がどれだけ苦しみ、つらい思いをしていたのか、直江には計り知れない。
「……高耶さん!」
「……ふん。事情がわかったとたんにそんな顔をしても遅い。あいつがお前の名を呼んで逢いたいと泣いた瞬間も、お前はあの女と一緒にいたんだろう。そんな奴にはもう、あいつに触れる資格はない。−−仰木は、俺がもらう」
「兵頭! 貴様……っ」
 憤りも露わに睨みつける直江を挑戦的な目つきで睨み返すと、兵頭は部屋を出ていった。
「……く……っ」
 後を追うように部屋を出て、急いでエレベーターへと向かう。途中、麻衣子とすれ違ったが、直江は眼中にも入れない。
「直江さん?」
 先程のことをきちんと謝ろうと思っていた麻衣子は慌てて追いかける。
「あの……っ。さっきのことなんですが……」
「うるさい。邪魔だ」
「え……?」
 エレベーターの前で腕を掴んだところを冷たく振り払われてしまった麻衣子は呆然となる。直江はというと、一歩違いで兵頭を行かせてしまったことに舌打ちした。
「あの……」
 尚も声をかけるが、直江は顔を見ようともせずに冷たく言った。
「仕事の上ではともかく、個人的なことではもう私に関わらないでくれ。迷惑だ」
「……っ」
 麻衣子はさっと青ざめたが、次のエレベーターがくるのを苛々と待っている直江は気にも留めない。
「どうして……っ!?」
「元々、君とは何の関係もない」
「でも……っ」
 あのキスは? そう問いかけようとしたが、先に直江が口を開いた。
「あれはあの時だけの気まぐれに過ぎない。たったあれだけのことで私が君とつき合っているなどと勘違いしないことだ」
 見上げた直江の横顔は、いつになく厳しい表情をしている。その視線が捜し求めるのは、たったひとり……。
 直江の心にいるその人物……。
 その事を察した麻衣子はとっさに叫んだ。
「……仰木君ですか!? 直江さんはやっぱり、本当に……!
「−−だったら、どうなんだ?」
 一層冷ややかな直江の声色とは裏腹に、麻衣子は次第に取り乱してゆく。
「……そんなコト……ッ! 信じられない! ……だって仰木君は男だし……っ」
 外部の漏れたりしたら、とんでもないスキャンダルになる。
 しかし、直江は顔色ひとつ変えずに言い放った。
「私にとってはそんなこと、関係ない。彼が男だろうが女だろうが、世間に露見して批判されようが構わない。君や、世の中の人間がどういう風に思おうと、どうでもいいことだ。私にとってあの人を愛しているということが唯一絶対の真実なのだから」
 他の何を失っても、手放せない。失えない−−
 それだけを言い残して、直江は扉を開けたエレベーターの中に消えた。
「……やっぱり、敵わない……か」
 ぽつねんと残された麻衣子はかすかに震える声で呟き、滲む涙をそっと手の甲で拭い取った……。


*  *


「……ん」
 ようやく目を覚ました高耶は、自分がいつのまにか薬臭い部屋に寝かされていることに気がついた。
(……ここは、医務室か……)
 記憶は強い眩暈を感じたところで唐突に途切れている。どうやら、あのまま意識を失って倒れてしまったらしい。
「……情けねーな」
 小声で呟いたとき、ふいにドアが開いて中川と兵頭が姿を見せた。
「ああ、仰木さん。気がついたんですね」
「……中川先生。お久しぶりです。……すいません。なんか迷惑かけたみたいで……」
「ははは。これも仕事ですから。あまり気にしないでください」
 言いながら、とっくに薬の入っていない点滴を外す。
「うん。だいぶ顔色がよくなりましたね。起きられますか?」
「はい」
 そっと躰を起こしてみたが。もう眩暈はない。少し眠ったことで、だいぶ躰が回復したようだった。
「大丈夫か?」
 苦笑とともに問いかける兵頭に慌てて頭を下げる。
「すいません、兵頭さん。大事な会議の最中に……」
「全部滞りなく終わったから、気にするな」
「ほんとにすみませんでした。……それで、あの、兵頭さんがオレをここまで運んでくれたんですか?」
 高耶の問いに、兵頭は僅かに表情を曇らせる。
「……いや」
「……じゃあ、誰が?」
「直江支社長ですよ」
 事も無げに答えた中川の言葉に、高耶の表情が強張る。
「……そう、ですか」
 高耶とはもう何の関係もないはずの直江が、そうしてそんなことをしてくれたのか。高耶にはわからなかった。
 混乱の中で、もしかしたらという希望に縋りたがる自分が浅ましくてたまらなく嫌だった。
(……ここは、駄目だ……)
 直江との想い出が多すぎて、必死に押し殺している想いが堰を切って溢れ出しそうになる。
 高耶は未練がましい想いを振り払うように数回頭を振ると、おもむろにベットから降りて立ちあがった。傍らに置いてあったイスにかけられていたネクタイを締め直し、上着を着込む。
「会議も終わったんだし、帰りましょうか。飛行機、何時でしたっけ?」
 努めて明るく問いかけると、兵頭は困ったような面持ちで言った。
「……それがな、総務課の手違いで明日の便のチケットが手配されてたんだ。キャンセルして今日の分をと思ったんだが、もう満席で……」
「え? じゃあ、どうするんですか?」
「嘉田さんに連絡をしたら、ちょうどいいからプロジェクトのスポンサーに挨拶まわりしてこいと。だから、今日も東京泊まりだ」
「……そうですか。じゃあ、すぐにアポを取って行けるところは今日のうちにまわってしまいましょうか」
 てきぱきと動き出そうとする高耶の肩を掴んで、厳しい顔つきで兵頭は首を横に振った。
「駄目だ」
「え?」
「今日のところは俺ひとりで行ってくるから。仰木は先にホテルに帰れ」
「……でも」
「今日倒れたばかりなのに、無理をしてまた同じことになったらどうするつもりだ? 今日はもうホテルに戻って大人しく寝ていろ。連泊の予約はいれておいたから」
「そうですよ、仰木さん。今日一日はゆっくりしてください。これは医者としての命令です」
 重ねて中川にまで言われてしまっては、これ以上食い下がることもできず、高耶は不承不承頷いた。
「……わかりました」
「よし」
 話がついたところで、中川に礼を言って医務室を出る。一階へ下りるためにちょうどよく開いたエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる一瞬、隣のエレベーターから降りてきて医務室へと向かう直江の姿が垣間見えたが、高耶は後ろを向いていて気づくことはなかった……。




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