愛に似た獣 Written by とらこ 前編 『火のような想いが、私を苦しめる ジェラシーはまるで、愛に似た獣 危険な爪を持つ獣−−』 いつもはクラシックばかりかかっているカーステレオから聞こえてきた、あまり趣味がいいとは言えない歌詞の曲に、助手席に乗っていた高耶はあからさまに眉を顰めた。 「……直江。お前、こんな曲聞く趣味があったのかよ……」 それでなくても嫉妬深い男なのに、こんな曲を聴いていて煽られたら、それこそ手がつけられなくなってしまう。ぞっとしてそう言った高耶に、運転席の直江は苦笑して言った。 「……違いますよ。一応参考にと思いましてね。……これは今回の被害者の作品なんだそうですよ」 暮れも押し迫った十二月二十七日。 E大学の社会学部の学生、仰木高耶と同大学の社会学部助教授・直江信綱は神戸を目指して車中の人となっていた。 事の起こりは、今朝直江のマンションに入った、兵庫県警の色部警部からの一報だ。 同じマンションに同居している高耶と直江がニュース番組を見ながら朝食後のコーヒーを飲んでいるところへ、その電話が入った。 『朝からすまん、直江。昨夜なんだがな、作詞家の武田晴信氏が青酸カリを飲んで死亡する事件があったんだが……。お前の興味を引きそうな事件だと思ってな。もしよかったら神戸までこないか?』 最近の流行っている歌には疎い直江は、運転しながら高耶に問うた。 「この曲を作詞した武田晴信という人はどんな人だったんですか? 売れていたんですか?」 「う〜ん。オレもあんまりよくは知らないけど、立て続けに五・六曲ヒットしたんだよ。でも、まだ新進の作詞家ってとこかな。……こないだ歯医者で読んだ週刊誌に記事が載ってたから覚えてるだけなんだけどさ、武田ってのは神戸の山の手育ちのおぼっちゃんで、東京の大学を出て向こうでコピーライターの真似事をしてるうちに『作詞してみない?』『それじゃあ……』みたいな感じで始めたところが、大当たりってわけ」 直江のところで同居するようになるまでは、とても楽とは言い難い学生生活を送っていた高耶にとっては、武田氏のような棚ぼたな人生は不快であるらしかった。きつく眉を顰めたまま話し続ける。 「普通ならそのままトーキョー文化人になりそうなものの、東京は田舎モノだらけで耐えられないからって神戸に戻ったんだとさ。そいつに言わせると「関西ではなく神戸」なんだと。京都は人間が悪いし、大阪はすべてがサイテーの土地らしいから」 そのこだわりというか、『へ』のつく理屈が高耶にはわからない。わかりたくもないのだが。 直江もさすがに眉を顰めて言った。 「……ずいぶんと文句の多いおぼっちゃんなんですねぇ」 被害者の一通りの情報(というかだいぶ歪んでいる情報なのだが)を頭に入れたところで、車はようやく神戸の武田晴信の家というか邸宅に辿り着いた。白い塀に囲まれた大きな家の前面にはガレージがあり、その前にパトカーやら救急車やらが停まっている。周囲を取り囲むように張り巡らされた警察の黄色いテープの外側には、何十人何百人という野次馬が集まってこれまた壁を作っている。直江と高耶は少し離れたところに車を停めて、人混みをかき分けて黄色いテープの前まで出た。 そこから、玄関のところに姿を見せていた色部警部に声をかける。 「色部さん」 直江と高耶の姿を見つけると、色部は早速テープの内側に入れてくれた。 「早かったんだな。すまん。とりあえず、これまでの経緯を話すから、中に入ってくれ」 色部の案内で家の中に入ろうとしたとき、庭の茂みや芝生をかきわけて何かを必死に捜している警官の姿が目に入った。 (……何してんだろ?) 何か証拠になるものでも落ちているというのだろうか? 疑問を抱いたが、それ以上は気にとめることもなく高耶は直江に続いて家の中に入った。リビングには五人の事件の関係者が集められており、彼らと対面する前に色部は昨夜からの事件の経緯を聞かせてくれた。 「死亡したのはこの家の主で作詞家の武田晴信氏三十五歳。死亡時刻は昨夜の午後九時半頃。死因は青酸カリを嚥下しての中毒死だ」 色部が被害者の生前の写真を見せてくれた。女にモテそうな二枚目だが、どこか人を見下したような目つきが鼻につく。 「昨夜、この家には忘年会で五人の客が集まっていたんだ。彼らには後で会ってもらうが−−まず、晴信の妹、武田禰々。二十九歳。あとは友人達で、イラストレーターの村上義清・三十八歳。コンピュータプログラマーの諏訪頼重・三十五歳。インテリア・デザイナーの内藤里美・二十四歳。そして最後がモデルの三条麗・二十三歳だ」 (……なんか、カタカナばっかだな……) 自分には縁のない職業ばかりで、高耶は目を丸くした。 「準備のために妹の禰々がやってきたのが午後二時頃。友人達は夕方五時くらいからポツポツとやってきて、最後の内藤里美が着いたのが午後七時過ぎだ。それからパーティーが始まって、食事をしながら酒を飲み、歓談。そのあとに九時ぐらいからカラオケが始まったそうだ。順に一曲ほどやったところで問題の飲み物が出た。酒より暖かいものをと言って、妹の禰々がロシア紅茶を作ったんだそうだ」 「ロシア紅茶?」 聞いたこともない飲み物の名前に、高耶が首を傾げる。 「普通の紅茶じゃないのかよ?」 「ロシア紅茶は中にジャムを入れるんですよ」 「へ〜美味そうだな」 高耶は興味津々だったが、甘いものが苦手な直江は苦笑する。 「そう。それが武田晴信の好物だった。その時入れられた紅茶に青酸カリが混入されていたというわけだ。紅茶を飲むなり晴信は喉をかきむしって苦しみだし、慌てて119番をしたが、救急車が到着した頃には既に晴信は冷たくなりかかっていたそうだ。明らかに青酸系毒物による中毒死の様相呈していたから、救急隊員から所轄に連絡が入ったんだ」 色部はそこで一旦言葉を切り、懐から手帳を取り出した。 「検死の結果、被害者は致死量を越える0.2グラムの青酸カリを嚥下していた。青酸カリは被害者の飲んだ紅茶の残りから検出されたが、それ以外のどこからも出ていない」 「つまり、毒は武田氏のカップにだけ入っていた……。自殺の可能性はないんですか?」 「そう考えて俺達も尋ねてみたんだが、兄に自殺しなければならない理由など何一つないと妹の禰々が言明した。確かに、仕事は順調だし、何よりも被害者は近々結婚する予定だったそうだ」 そんな人生の絶頂期に好き好んで自殺しようとする者は、まずいないと言っても過言ではないだろう。 「ふぅん……」 「相手は京都のさる名家のお嬢さんだそうだ。昨夜は都合が悪くて参加できなかったんだと」 「……京都は人間が悪いんじゃなかったのかよ?」 自分で言っていたことと相反する男の行動に、ぼそりと高耶が呟く。直江は苦笑してその横顔を見つめた。 「自殺の動機がないだけじゃなく、よりによってパーティーの最中にわざわざ毒をあおって死ぬっていうのも不自然だしな。これまでの捜査では遺書らしきものも発見されていない」 「事故、というセンは?」 「あるわけないだろうが。ばか直江。それでも犯罪社会学の助教授かよ」 「一応ですね。可能性として」 けんもほろろな高耶の言葉に直江は言い返したが、色部が重ねて否定する。 「坊やの言うとおりだ。ありえないな」 「……じゃあ、殺人ならことは比較的簡単なんじゃないんですか? 容疑者は昨夜その場にいた五人に限定されるわけですから」 「そうだ。しかも、武田氏と四人の客の間にはある種の確執があったようなんだ」 そこで少々複雑な五人の関係の説明を受け、それから二人はその関係者が集められているリビングへと通された。色部と一緒に高耶達が入っていくと、皆不審そうに首を傾げる。 「皆さん、どうも」 色部の挨拶には答える者はおらず、それどころか村上義清と内藤里美は不機嫌な表情を隠そうともせずに口々に言った。 「警部さん。そろそろ解放してもらえませんかね?」 「そうですよ。もうお話すべきことはみんな喋りました」 「まあまあ、村上さんも内藤さんも、お昼までにはお引き取りいただけるようにしますんで、もう一度だけ昨夜の様子を伺いたいんです」 「……何度話しても同じ事です」 冷たくそう言ったのは、ひときわ美しい顔立ちをした、長い日本人形のような真っ直ぐな黒髪が印象的な若い女だった。流行に疎い高耶でも雑誌で顔くらいは見たことのある、モデルの三条麗だ。見た目のきつそうな印象に違わず、かなりプライドの高い性格らしい。 「三条さん。そう言わずにあと少しだけ辛抱してください」 その言葉にひとりだけ好意的に答えたのは、諏訪頼重だけだった。 「僕はいいですよ。協力します。でも、その前にそちらの方々を紹介していただけませんか? 警察の方ではないですよね?」 「ああ。こちらは刑事捜査に造詣が深い犯罪学者の直江助教授とその助手の仰木高耶くんです。兵庫県警はこれまでにもお二人に有益な助言をもらっていましてね。今回も事件の早期解決のために協力してもらうことにしたんですよ」 「ふぅん。じゃあ、その人達の質問にはこちらとしては答える義務はないんですね」 しれっと言ってのける諏訪に釘を刺すように、色部ははっきりと言った。 「皆さんにお尋ねするのは私からですが、もし直江助教授から質問があった場合は、どなたも誠意ある協力をお願いしますよ」 色部の言葉に追随するように、今まで黙って俯いていた禰々が顔を上げて言った。 「皆さん。私からもお願いします。兄の死の原因を知るためにも、協力してください」 禰々にまでそう言われては、文句を言うわけにもいかず、皆それぞれに承諾の意志を示した。 「じゃあ、時間を無駄にしないよう、早く始めましょう」 三条の言葉で、再び現場を再現する作業が始まった……。 「では−−まず皆さんは最初ダイニングで食事をされた。近況の報告や、今年の大きなニュースについてあれこれとコメントを交換したりした。−−そうですね?」 「ええ。特別なハプニングもありませんでしたよ」 諏訪の答えを受けて、色部が質問を続ける。 「不躾ですみませんが、パーティーの最中に武田氏の婚約について話は出なかったんですか?」 その質問にはさすがに飄々としていた諏訪も嫌そうな面持ちになって言った。 「出ませんでしたね。それは僕たちにとって面白くない話題ですから。その辺の事情は禰々さんの方からお聞きになってるんでしょ?」 まるで禰々が密告でもしたかのような言い方に、当の本人は泣き出しそうな表情をした。 「わ、私は悪意をもってお話したりは−−」 「いいんですよ。禰々さん。刑事さんが調べてまわれば、どうせわかることですしね」 あくまで淡々と言う村上の言葉に少しは安心したのか、禰々は小さくため息をついた。 このリビングへ入る前、色部が二人に教えてくれた彼らの間の複雑な事情というと、まず武田氏の婚約者というのが元々は諏訪頼重の恋人であったらしい。また、内藤里美と三条麗は袖にされたクチで、村上義清はというと熱を上げていたとある女流作家に武田氏があることないこと吹き込んだせいで、結局失恋してしまったということ。 人の気持ちを省みる、などということはなかった武田氏は、そういったことで自分が恨まれているなどと思ってもいなかったようだった。 高耶から見れば、呆れ果ててものが言えない。この四人にしても、よくそんな面子で忘年会などする気になったものだ。 −−ともあれ、武田氏を殺害するチャンスのあった四人には、全員動機もあったわけだ。 「みんな不愉快な気持ちで今年を終わりたくないから、とにかくその話題は自然に避けられていたんです」 内藤里美の言葉で納得した色部は次に移る。 「わかりました。それでは食事の後、カラオケが始まってからの様子に移りましょう。前日と同じ席に着いてください。武田氏の役は私がやります」 リビングのテーブルを囲んだソファに全員が腰掛ける。横に置かれていた一人用のソファには武田氏が座っていたということで、そこには色部がおさまった。 「カラオケが始まったのがちょうど九時頃でした。最初は村上さん。次に内藤さん。続いて禰々さんが歌った」 「はい。私が歌い終わったところで諏訪さんが−−」 「『何か暖かいものが飲みたくなったなぁ』と言ったんですよ」 「それで武田氏がいつものロシア紅茶を、と禰々さんに頼んだわけだ。禰々さんは承知して立ち、キッチンへむかった。−−どうぞ。同じようにして紅茶を作ってください」 色部に言われて、禰々は立ち上がってキッチンへと向かった。そして、諏訪が立ち上がる。 「そして、その間に僕が歌ったんですよ」 別にそこまでする必要もないのに、わざわざ曲をかけて諏訪は意気揚々と歌い始める。あまり聞き慣れない歌謡曲に直江はそっと高耶に耳打ちした。 「……なんですか? この曲?」 「しぃ〜。ばか。これも被害者の作品だよ」 誰にでもわかりやすい言葉を連ねた歌詞。それが受けて世間でヒットしたのだろうが、直江にはまるで子供の歌のように聞こえてしまう。人を傷つける言葉さえ、それと思わない武田氏の幼稚さを如実に表していると思った。 最後まできっちりと歌い終わった諏訪は、次に三条にマイクを手渡した。 「次は麗さんだったね」 女はマイクを受け取って立ち上がり、色部に問うた。 「諏訪さんみたいに実際に歌う必要なんてありませんよね?」 「ええ。かまいませんよ」 三条麗が選んだのは、同じく武田氏が作詞をした曲で、ここへ来るまでの間に聞かされていたあの歌−−「愛に似た獣」だった。 『まるで氷のように私は凍てついた。 ジェラシーはまるで、愛に似た獣。 危険な爪を持つ獣−−』 自分を棄てた男の前で、こんな歌を歌った女の気持ちとは一体どんなものなのだろう? 高耶は考えずにはいられない。 自分の心に隠した想いや、恨みを込めて、それを伝えるように歌ったのだろうか? どちらにしても、あの武田氏には通じなかっただろうけれど。 ついつい真剣な眼差しで三条を見ていた高耶を横目で見て、直江が低い声で言った。 「……ハナの下が伸びてますよ」 漂ってくる紛れもない嫉妬の気配に、高耶は慌てて否定した。 「べ、別に見とれてたわけじゃねぇよ! ただ……」 「ただ?」 「あの歌を歌ってるか聴いてるうちに、犯人に殺意がわき起こってきたのかもとか思って……」 「それはないでしょうね。毒物を事前に用意してきているんだから、そんな発作的な殺人ではありませんね」 まだ怒っているのか、直江の言葉はそっけない。 (くそ〜〜〜。その通りだけどムカツク〜〜〜) その間に三条の曲が終わり、女はスタスタと色部に近づいた。 「次は晴信の番だったのよ。ちゃんと立って歌うのよ」 「……じゃあ、格好だけ」 ちょっとした意趣返しのつもりなのだろう。諏訪や村上は面白そうにニヤニヤしてその様子を眺めている。しかたなく立ち上がった色部はみんなの前に立ち、眉間にしわを寄せて直立不動だった。 (……あ〜あ、色部さん可哀想……) その曲の間に三条が動く。 「『空気が悪いから、少し換気するわ』」 そう言って三条は高耶が立っている傍にきて、窓を開け放った。 「『私が運ぶわ』」 そして、そのまま禰々のいるキッチンに面したカウンターの方へ移動する。カウンターの上にはトレイに乗った人数分の紅茶が用意され、暖かい湯気が立ちのぼっていた。 そこで初めて、直江が言った。 「すみません。もう少しゆっくりやってみせてくれませんか?」 三条は僅かに顔をこちらに向けて、口元だけで笑った。 「いいわよ、センセイ」 もう一度、同じ動作を繰り返す三条を見て、内藤里美が付け足すように言った。 「この場面。本当は晴信さんの歌でかなり盛り上がっていたんですよ」 「ということは、誰も紅茶を運ぶ三条さんの方を見ていなかったんですね?」 「うん。確かに注目はしていなかったけど、彼女が歩いてくるのは見たな」と村上。 「僕は背中向きだったから見てないな」と諏訪。 色部の問いを三条への疑いと感じたのか、禰々が更に付け加えた。 「警部さん。それについてはこれまでにもお話した通り、三条さんは私から手渡しでトレイを受け取って、真っ直ぐに皆さんのところまで運んだんです。毒を入れる間なんてありませんでした」 三条は深く頷き、テーブルまできてカップをそれぞれの前に置いていく。 「それはまったく無作為に置いていったんですね?」 「勿論よ。どれも同じなんだから」 そして、並んだ紅茶に早速手をつけたのは内藤里美だった。ティースプーンで砂糖を入れ、かきまぜてから口に運ぶ。 「おや? 内藤さん以外は皆さんカップに触れませんね」 「ええ。武田の歌で盛り上がってましたし、それに曲も終わりかけてましたから」 村上の言葉通り、ちょうどそこで曲が終わった。安堵した色部は苦笑いをしながら自分の席に戻った。 「『次はトップに戻って諏訪ちゃん』だったわよね」 内藤の言葉に、諏訪が深く頷く。だが、その手にはティーカップを持つ。 「ええ。でも、紅茶が飲みたかったので一回パスしました」 「俺もです」と村上。 そして、内藤里美が砂糖の入った容器を手に取った。 「それから私が砂糖を『少しでよかったわよね?』と言って零してしまったんです」 ざぁ、と白い砂糖がテーブルの上に広がる。 「『あら、ごめんなさい』」 それを容器に戻す作業を見ていて、色部の目が厳しく光る。しかし、すかさず村上が言った。 「この時彼女の所作に怪しい点はありませんでした。毒なんか入れる暇はありませんでしたよ」 「そうそう。それから禰々さんが雑巾を取りに行ったっけ」 諏訪は一度言葉を切り、真剣な表情になって再び口を開いた。 「……砂糖を入れてもらうと武田はすぐにその紅茶を飲みましたよ。−−ひとくちだけね」 「この直後に、武田氏は苦しみだすんですよね?」 頷く諏訪と視線を交わし、色部は直江の方に向き直る。顎に手を当てて考え込んでいた直江は、すっと色部の方をみて口を開いた。 「事件発生当時の様子がだいたい飲み込めました。本件が自殺や事故でないとしたら、皆さんの中に犯人がいることになる」 冷静そのものの直江の迫力に気圧されるように、誰も口を開こうとしない。 「一体何者が武田氏のカップに毒を入れる事が出来たのか? −−五杯の紅茶を淹れたのは禰々さんで、それを手伝った人はいなかった。だから、彼女には投毒の機会があった−−」 「な……ッ!」 激昂しかけた村上が立ち上がりそうになるが、直江はそれを片手で制した。 「静かに! 黙って聞いていてください。−−しかし、万が一彼女に兄殺しの動機があったとしても、カップのサーブを三条さんに任せたので、毒を盛ったカップを確実に目標に到達させることはできなかった。また、三条さんには投毒の機会はなかった。トレイは重く、両手は塞がったままでしたからね」 「そうよ」 「では、毒はカップがテーブルに置かれた後で混入されたのか? 砂糖を入れた内藤さん以外、武田氏のカップに手を伸ばした人はいなかった。が、その内藤さんも毒を混ぜることはできなかった……」 少し考え込んだあとで、直江はおもむろに言った。 「……判りましたよ」 「え!? もう判ったのか!?」 高耶同様、皆驚いて直江を見るが、彼の返答は…… 「ええ、色部さんが悩んでいる理由がね」 「……真面目にやれよ、直江っ!」 「失礼な。私は大真面目ですよ。−−さて、問題はロシア紅茶の構成要素の何が毒を含んでいたかですね。紅茶そのものかジャムか。あるいは砂糖か。ジャム入りの紅茶そのものに投毒する機会があったのは禰々さんだけだったが、彼女にはカップの行方をコントロールすることができなかった。誰でもいいから一人殺そうなんていうのは考えにくいし、自分にも毒入りの紅茶がまわる危険がある。−−いや、待って下さい。自分だけにわかる印でもつけてあったのかな?」 せっかくの推理だったが、色部がにべもなく否定してくれた。 「いや。どのカップも新品同様で傷もついてなかったよ」 「注がれた分量に差があったということは?」 禰々は静かに首を振る。 「いいえ」 「禰々さんのセンがなし。カップに近づいた三条さんや内藤さんにも怪しいところがなかったとすると、では砂糖壺ですか?」 長々と続く直江の話に苛立ってきたのか、声色も荒々しく村上が叫んだ。 「いいかげんにしてくださいよ! 砂糖壺にはみんな触ってるんですよ!」 それに同調して、諏訪も言い募る。 「今度は僕らが毒を入れたって言うんですか!?」 ……しかし、直江の口にした返答は、皆を呆れさせるのに充分なものだった。 「うん。これこそ闊達な意見の交換ですね。ウチの学生達に見習わせたい」 「この人、ちょっとヘンじゃない?」 バカにしたような笑みを刻んだ三条が、内藤に囁く。 「仮に誰かが砂糖壺に毒を入れたとしたら、壺の中には微量の毒が残ったでしょう。−−どうですか? 色部さん?」 「残念だったな。砂糖壺の中には毒薬どころか、どんな異物も入っていなかった」 そこで直江はしばらく考え込んだかと思うと、いきなり高耶の方に向き直った。 「高耶さん。貴方はどう思います?」 「え!? ……えっと、そうだな……。紅茶の中に入ってた毒は、犯行の後で偽装工作のために入れられたとか」 高耶は関係者の顔を見回しながら、問うた。 「武田さんが普段から何が薬を常用していたとか、何かありませんか?」 その薬が青酸カリとすり替えられていた、と仮定して高耶は尋ねたが、返答は否だった。 「……いえ。特には。兄は健康そのものでしたから」 「じゃあ、スプーンに毒が塗ってあった可能性は? 内藤さんは自分のスプーンで武田さんの紅茶に砂糖を入れたんでしょ?」 「な……ッ! 失礼な!」 里美が怒り出したが、それを横から三条が宥める。 「落ち着きなさいよ、里美。そんなスプーンを突っ込んだりしたら、必ず残ったお砂糖からも毒が検出されてるはずよ。−−バカみたい」 「……っ」 とっさにムカっときたものの、あえて無視して次の推論を述べる。 「じゃ、じゃあ、武田さんが苦しみだしたのは、本当に毒を飲んだからなのかな? パーティーの席の悪い冗談のつもりだったとかさ。あれは演技でみんなが驚いて駆け寄ったあたりで本当の毒を飲ませたとかさ……」 「ハッ! 1000%それはありえないよ! あれは本当の発作だった。その場にいなかったからそんなことが言えるんだ」 「それにどさくさに紛れて毒を飲ませる方法もありませんでしたよ。彼はじきに息絶えてしまったからね」 「…………」 村上と諏訪の反論に、高耶はそれ以上何も言えなくなってしまった。直江はそれを見て、高耶の肩に手を置いた。 「高耶さん。他に何か思いついたら言ってください。−−ところで色部さん。犯人は何らかの容器に毒物を入れて持ち込んだはずだ。その探索はどうなっているんですか?」 「……それがまだ発見されてないんだ。関係者には執拗な身体検査をさせてもらったし、室内も昨夜から徹底的に調べたんだが、何も出てないんだ」 「屋外はどうです? 窓の外は?」 直江の言葉につられるように、高耶は窓を開けて外を覗いてみた。外側の窓のところにはちょうど鉢植えがおけるぐらいの幅があり、そこにはポインセチアの鉢植えがちょこんと置かれていた。 「勿論、犯人が容器を屋外に投げ捨てた可能性もあるからな。隣家の敷地内も捜査したんだがな……。でも、何もなかった」 「それはおかしい。容器はあるはずです。徹底的に捜したのに見つからないのは変でしょう」 「だがなあ……」 色部も困って頭を掻く。しかし、ないものはないのだ。 「犯人は容器を始末する必要なんてなかったんです。出所を掴まれないありきたりの物なら、見つけられても何の痛痒も感じなかったはずです。……おかしいですね」 「直江。確かに容器が出てこないのは腑に落ちないけど、それってそんなに重要なことなのか?」 「容器というほど大げさなものではなかったかも知れません。でも、それが特定できない理由が知りたいんですよ」 −−それがきっと、事件を解く重要な鍵になる……。 リクエストは本格ミステリな直高ということで……。私自身のオリジナルなネタではとうてい本格ミステリにはなりえないので、元ネタとして有栖川有栖の「ロシア紅茶の謎」を持ってまいりました。配役は火村さんが直江で、有栖が高耶さんです。このお話の時点で有栖は既に小説家なんですが、小説家な高耶さんってイメージ違うな〜と思って大学生にさせてもらいました。 有栖川ファンの皆様ごめんなさい〜〜〜(脱兎!) 88888HITの円堂沙耶様リクエスト作品で、あちらのサイトにUPされていたものを再掲しました。 |