朱い月の檻
Written by とらこ
第一話 朱い月が、二人をみていた……。 手のひらを真っ赤に染め上げる血を洗い流そうとする彼を……。 彼を救おうと罪を犯した男を……。 * *
直江が彼と初めて逢ったのは、一週間前のことだった。 ある殺人事件の捜査中に、手がかりを握っている人物を追っていた時だった。 細く込み入った裏路地をいくつか曲がった先で、追っていた人影が忽然と消え失せた。 (……気づかれたか?) 足音も、影の端さえも見失い、慌てて周囲を見回しながら走り出そうとした時−− 誰かが首を絞められているような、かすれた呻き声が聞こえてきた気がした。さほど遠くではない。直江は周囲の建物を注意深く見回した。 「……ぐ、ぅ……っ」 また、聞こえた。空耳などでは決してない。 だいぶ近い。そう思ったとき、自分が立っているすぐそこに壁と同じ色をしていて目立たないドアがあることに気が付いた。声は、そこから聞こえてくる。 ひとつ息をついて、錆びてボロボロのドアノブに左手をかけながら、右手で懐の銃を握りしめる。 ノブを回そうとしたが、それはもう壊れていて完全に用をなさなくなっていた。よく見れば、蝶つがいも半ば外れかかっている。 (……蹴破るか) 決めるや否や、直江は乱暴にドアを蹴破り、正面に向かって銃を構えた。室内の中央にわだかまる人影にとっさに狙いをつける。 「動くな!」とお決まりのセリフを言おうとしたが、あまりの衝撃に半ば硬直した口は思うように動いてくれなかった。 格子の入った窓から差し込む月光に照らし出された、鮮烈な赤−−。 独特の鼻につく匂いが、その赤はおびただしい血なのだと教えてくれた。 −−そして、何よりも直江を驚かせ、その心を強く惹きつけたのは、大量の朱い血にまみれて座り込んでいる青年の姿だった。 服装はジーンズに、元は白であったろうシャツ一枚。頭から重い血で濡れそぼり、足元に海をつくっているそれの中に弛緩した手足を投げ出している。とても綺麗な顔立ちをしているが、格子の向こうに皓々と輝く月を見つめる瞳はぼんやりとしていて、どこか遠くを見つめているようだった。 −−まるで、血に酔う死の女神のようだ……。 らしくもなく、とっさにそう思った。 どのぐらいの間、そうやって彼を見つめていただろうか? 短くも長いその時間に、浸食されてゆく心……。 押し止めようとする理性の声も届かず、呆然と魅入られている直江を正気に戻したのは、手にしていた拳銃がコンクリートに落ちた重い音だった。 「……っ」 びくりと肩を震わせて思考を取り戻した直江は何度も頭を振って、危うく流されそうになった陶然とした心地を振り払う。 気を取り直して銃を拾いながらも注意深く青年の様子を窺っていた直江は、彼の足元に転がっているものに今初めて気が付いて身を強張らせた。 血だまりの中に無造作に投げ出され、力無く横たわるそれは、死体、だった。 しかも、苦痛に満ちたその死に顔は、ついさっきまで直江が追っていた男ではないか。 驚きに目を見開いた直江は、反射的に青年を見上げて再び銃を構える。 「貴方が、殺ったんですか!?」 容赦なく相手を問いつめる厳しい声も、彼の耳には届いていないらしい。ピクリとも動かず、まるで魅入られているかのように一心に月を見上げているだけ。 「答えなさい!」 もう一度、強く叫んだその時−− ゆら、と生暖かい風が吹いて、彼がゆっくりとこちらを見た。黒い瞳の中にようやく現実の光景−−直江の姿をとらえて、何を思ったのか口元に笑みを刻んだ。悪魔でさえも魅了してしまいそうな、艶めいた微笑。 「……朱イ、月……」 切れ切れに、しかもようやく聞き取れるほどの小さな声で呟くと、青年はふいに目を伏せてそのまま昏倒して倒れ伏してしまった。 「……君っ」 直江は慌てて駆け寄ると躊躇なく青年を抱き起こした。首筋に指をあてると、確かな鼓動が感じられたので安心して息をつく。 「……これは、一体……?」 彼は、一体何者なのか? 足元の死体。これは、本当に彼がやったのか? 疑問を取り上げればきりがない。 とにかく、この状況を署の方へ連絡しなくてはならない。この事件の捜査にもかからねばならないし、前の件もこの分ではまた最初から仕切り直しになるだろう。 深い溜め息をつきながら、直江は青年を抱え上げて立ちあがった。 彼のことも、報告しなければならない。 ……本来ならば。 −−だが、直江は彼のことを誰にも言うつもりはなかった。 何故、と問われても、今の直江には答えることができない。 直江自身にも、まだ理解できない感情が、そっと支配を広げつつあった……。 彼は、囚われたのだ……。 * *
そのまま、直江は青年を自分のマンションに連れ帰った。当分意識は戻りそうもなかったので、血まみれの衣服だけを脱がせてベットに寝かせ、現場に戻った。その頃には既に直江から連絡を受けた応援が駆けつけており、現場検証が始まっていた。 「直江! どこに行ってたんだ?」 連絡してよこしたっきり、姿を見せなかった直江を見つけるなり、同僚の鮎川が声をかけてきた。白い手袋をしたまま直江を手招きし、思い切り眉をひそめる。 「現場ほったらかしにしてどこ行ってたんだ? お前らしくもない。何かあったのか?」 「……いや。人影を見たような気がしたんで、あちこち捜してみたんだが、どうやら気のせいだったらしい」 苦笑してみせると鮎川はそれ以上疑うことなく、そうか、と頷いた。が、眉間に刻まれた深い皺は消えない。 「……ったく。よりにもよってこいつが殺されるとはな。やっぱり例の事件に絡んでたせいか?」 「……わからない。でも、これでまたてがかりがなくなった……」 落胆したような直江の声に、鮎川は首を振って否定した。 「いや、わからんぞ。このホシをあげれば繋がるかもしれんぞ」 そう言いながら、鑑識が群がる死体の傍へ歩み寄る。 直江も同じように傍へ寄って、まじまじと死体を検分した。さっきは動転していた上に別のことに気を取られていたのでしっかりと見なかったが、男の死体は無惨なものだった。 彼の名前と顔だけは知っている。吉村というこの辺りをいつもうろついているチンピラだ。彼の死体は目は虚ろに開いたまま、声を絞り出すように口を開いている。死因は失血死。鋭利な刃物で喉をばっさりと切られていて、生々しい肉の覗く傷口が痛々しい。 「……ひどいもんだ。真正面から斬りつけたんだな、こりゃぁ。顔見知りの犯行の線が濃いな」 直江はただ、頷いた。難しい表情の奥では、部屋に置いてきた彼のことを考えていた。 正面から斬りつけられて死んだ被害者と、血まみれの彼。 (……やはり、彼が殺したのか?) とすれば、もしかしたら直江達が追っている一件にも関わりがあるかもしれない。 そう考えると、何故か心が沈んだ。 ここ最近、直江達が追っている一件というのは、新しい麻薬がらみの殺人事件だった。このところ十代や二十代を中心に出回り始めた「レッドライン」は安いが純度が高く、すぐにトリップして現実の境界線を超えられるというので、誰かがそう呼び出したのだ。爆発的に出回り始め、警察がようやく重い腰を上げた頃になって、その事件は起きた。 最初の被害者は「レッドライン」の売人だった。ナイフで体中をメッタ刺しにされ、売り物と有り金が根こそぎ盗まれたのだ。警察はヤクの上がりを巡る仲間割れだろうとあたりとつけて捜査を始めたが、一向に進展しないまま第二の事件が発生した。 被害者はまたしても売人で、今度は例の薬を買いに来た若者二人も、運悪く巻き添えになってしまった。売人は頭部をナイフで突き刺されて即死。若者二人も頸動脈を切られて失血死したが、そのうちのひとりは通報を受けた救急車が現場に着いたとき、まだ息があった。病院に運ばれる途中で手当てのかいもなく息を引き取ったが、彼は自分をそんな目に遭わせた人物について切れ切れの言葉を残していた。 『……あ、かい、髪。……狂っ、て……っ』 赤い髪。 今時の巷に髪を赤く染めている者など珍しくもなんともない。最初はなんの手がかりにもならないかと思われたが、麻薬がらみで最近名前が挙がっていて、赤い髪をした男がひとりだけいた。 斯波英士、というこの辺りのチンピラを束ねている男がそうだった。直江は写真でしか見たことがないが、芸能人でないことが不思議なほど綺麗な顔をしていて、派手に赤く染めた髪を長く伸ばしている。写真の斯波は口元に薄く笑みを刻んでいたが、底冷えのするような酷薄さをたたえたそれに、直江は背筋が寒くなったのを覚えている。 斯波が犯人かと捜査本部は色めき立ったが、肝心の証拠が何も出てこない。凶器も見つからないし、その上アリバイまで完璧ときては為す術がなかった。それでも、斯波を密かに監視し続けているとき、第三の殺人が起こる。 今度も害者は売人。これで斯波のアリバイが崩れればと思いきや、その時に限って担当の刑事が尾行に気づかれて撒かれてしまったのだ。しかも、今度現場で目撃されたのは、短い黒髪の男だった。 −−ちょうど、今直江の部屋で眠っている彼のような……。 目撃者の話によると、黒髪の男は死体の傍に放心した様子で座り込んでいたらしい。虚ろな瞳で虚空のあらぬところを見つめ、口は弛緩して半ば開いていた。もうひとり、通りがかりの女性が大きな悲鳴をあげたとたんに正気に返って、青くなってその場から駆け去ったのだという……。 その人物に似ているという青年と、殺された吉村が一緒にいるところを見たものがいる。そして、吉村は斯波にも繋がっていた。どちらが真犯人にしても、吉村が突破口だったというのに……。 事件の真相に繋がる細い糸は、断たれたかに見えた。 (彼が、糸口になる……) 直江は漠然とそう思った。 いたち茶屋さんでUPしていただいていた作品の再UPです。 ……吉村……大嫌いだけど、なんだか哀れ;; |