朱い月の檻
Written by とらこ
第二話 (……頭が、重い……) 波にでも揺られているかのように、彼はゆらゆらと漂っていた。 夢という境界の中を。 暖かい羊水にも似た気だるい心地に包まれながら、半ば覚醒しかかった意識にあらゆる記憶が走馬燈のように映し出されてはすぐに消えてゆく。 幼い頃の幸福で、でもどこかくすぐったい記憶や、学校というつまらない場所のささいな想い出。何もかもがランダムに甦ってきて、彼は混乱しそうになる。 (……チ、ガウ……。ヤ、メロ……ッ) 懐かしくも平穏な日々。どれもが遠い時の彼方にあり、どんなに手を伸ばしてももう手が届かないことを、彼は嫌と言うほど知っている。 (今は……今の自分は……) そう思った瞬間−− 目の前に鮮やかな朱が広がった。壁に、床に、どろりと流れる液体。……そして、独特の臭気。 その赤に埋まるようにして足元に横たわる人間の虚ろな瞳と目が合った刹那、彼は喉が張り裂けんばかりに絶叫していた。 * *
「−−−−ッッ!」 自分の放った叫び声で、彼は完全に覚醒した。 夢の中での動揺のままに肩で荒い息をつきながら身体を起こすと、汗が額から流れ落ちた。身体の中から生じる寒気を感じて、両腕で自身を抱き締めた時になって、彼はようやく自分が今どんな格好をしているのかに気が付いた。下着以外、何も身につけていないではないか。 それだけではない。たった今まで眠っていたセミダブルの柔らかいベット。モノトーンで統一された落ち着いた雰囲気の室内。何もかも、見たことのないものばかりだった。 「……ここ、どこだ?」 喉が渇いているのか、少し掠れた声で当然の疑問を口にした時、カチャリ、とドアの開く音がして長身の男が現れた。 年の頃は二十代後半から三十代頭といったところか。鳶色の髪と瞳を持つ、ひどく顔のいい男だった。彼の方もこちらを見て少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。 「気がついたんですね。よかった」 「……あんた、誰?」 瞳の奥までも覗き込むようにこちらを見つめる男から、逃げるように腰を引きながら尋ねる。 「私は直江信綱といいます。−−顔色もいいようですね。お腹すいていませんか?」 そんなことよりも、この直江と名乗った男に尋ねたいことがたくさんあった。軽く首を振って否定の意を示し、更に疑問をぶつけようと口を開きかけた瞬間、 ぎゅうううう、ぐるるるる……。 彼の身体の方が、正直に答えてしまった。とっさにお腹を押さえても、もう遅い。恥ずかしいぐらい長々と鳴いてようやくおさまった己の腹の虫を密かに罵倒しつつ、そっと直江の方を見る。男は身体を傾けて彼から顔が見えないようにして俯いていたが、その肩ははっきりと細かく震えている。笑いを噛み殺しているのだ。 「〜〜〜〜〜〜ッッ!」 何も言えずに真っ赤になってシーツを握りしめていると、直江はくつくつと笑いながらグレーのバスタオルと真新しい下着を手渡した。立ちあがってクローゼットを開けると、適当なシャツとズボンを見つくろって出して寄こした。 「すぐに何か用意しましょう。その間にシャワーを浴びてきてください」 他人に親切にされたことなどない彼は、少し戸惑いながらも小さく頷いた。妙な情けなどかけられるのはまっぴらだったが、何故かこの男には強い物言いができない。 「バスルームは部屋を出て右側の突き当たりにありますから」 「……あぁ」 のそのそと起きあがって歩き出した背中に直江は思い出したように声をかけた。 「あぁ、まだ貴方の名前を聞いていませんでしたね」 不用心ともとれる悠長さに半ば呆れながら、彼は振り向いた。 「……高耶。オレは、仰木高耶ってんだ」 (……変な奴) 彼−−仰木高耶と名乗った青年は、ぶっきらぼうに言い置いて部屋を出ていった。 「……高耶、さん」 ドアの向こうに消えていくすらりとした背中を見つめながら、直江は陶然と呟いた……。 * *
ぱたん、と後ろ手にドアを閉めて言われたとおりに右を向くと、リビングを挟んだ向かい側にバスルームのドアが見えた。 「……すげ……広い部屋だな……」 高耶が眠っていた部屋の他に、部屋が二つ。中央にリビングがあって、その他にバスルームとキッチンがある。家具類は一見シンプルだが、見た目からとても高価だということが窺える。 (……オレなんか、一生縁のないトコだな) そんなことを思いながら、バスルームのドアを開ける。手近にあった大きな駕籠の中にさっき手渡された着替えやタオルを放り込み、ふと何気なく洗面台の大きな鏡に映った自分を見た瞬間、ぎくりと身体が強張った。 髪に、何かこびりついている。もう乾いてしまって多少変色しているが、鈍い赤色が見て取れた。よくよく見れば、頬のあたりにも、何かを拭き取ったようなかすかな跡が残っている。 (……まさか) さっきの夢を思い出して、高耶は頭から血の気が引くのを感じた。 (……くそ……っ。また、なのかよ……ッ!) これで、二度目。 あれは夢だ。 そうとしか思えないほど、おぼろげな記憶。だが、身体には現実に血がこびりついている。 知らない間に、本当に自分が人を殺したというのか? えもいわれぬ嫌悪を恐怖がこみ上げてきて、身体が震える。自分を支える力すら失ってその場に座り込んでしまいそうになった。 激しい嘔吐感を必死に堪えながら、高耶ははっと気がついた。 直江と名乗ったあの男。 「……あいつ。血まみれのオレを、ここまで連れてきたのか……?」 一体、どういうつもりなのか? (……何か知ってるのか……?!) もし、そうなのなら……。 (脅してでも全部吐かせてやる……!) 一気に吹き上がる疑念に、高耶はきつい眼差しでドアの向こう側を睨みつけた……。 * *
直江をすぐさま問いただしたかったが、このまま血のこびりついた身体ではいたくなかったので、高耶はできる限り急いで汚れを洗い落とし、ばたばたと着替えてリビングに戻った。ガボガボの大きなシャツに、足の余るズボンで格好悪いと思ったが、そんなことに拘っている場合ではなかった。 足音も荒くリビングに入ると、ちょうどよく直江がキッチンから出てきたところだった。 「早かったんですね」 「……てめぇっ」 感情のままにつかみかかろうとした高耶だったが、直江の方が先に手を突き出して押し止める。 「……貴方の言いたいことはわかっています。私も聞きたいことがありますから、とりあえずは座ってください」 真剣な直江の表情に圧されて、それ以上何も言えないまま高耶は大人しくソファに腰掛けた。それでも眼光だけは緩めずに直江を睨みつけている。相手はそんな高耶の視線に気づきながらも黙殺し、テーブルの上に食事を並べた。が、それを見た瞬間に高耶は怒りも忘れて呆れ果てた。目の前に置かれたのは、電子レンジで暖めるだけで食べられるレトルトのお粥だったからだ。他にも色々と惣菜があったが、すべてレトルトかどこかの店のテイクアウトの品だった。 「……飯、作るって言わなかったか? あんた」 あからさまな皮肉に、直江は苦笑した。 「すみません。料理なんてしたことがないもので。−−それと、さっき私は『用意する』とは言いましたが、つくるとは一言も言ってませんよ」 「〜〜〜ッ」 挙げ足を取られてとっさに口ごもる。何も言えずに睨みつけていると、直江はくすくす笑いながら向かい側のソファに腰掛けた。 「お腹すいたでしょう。どうぞ」 「んなのどうでもいい! お前に聞きたいことがあるんだ!」 苛立った高耶は半ば立ちあがるようにしてテーブルを激しく叩いた。衝撃で料理が僅かに跳ね上がる。二人の間に冷えた空気が流れ、高耶は更に直江を問いつめようと口を開きかけた。 ぐううぅぅぅ……。 あまり美味しそうでないとはいえ、食べ物を目の前にして高耶の身体がまた勝手に空腹を訴える。再びの情けない醜態にもはや声もなく、高耶は脱力したようにソファに身体を沈めた。 「……食べながら、話しましょうか」 「…………」 直江が相手だと、なんだか調子が狂う。 憤懣やるかたないといった面持ちで、それでも高耶は素直に食事を始めた。 「なあ、あんたは食べないのか?」 自分の食欲に負けて高耶は黙々と食べ続けていたが、ふと直江が何も手をつけようとしないことに気がついた。人が用意したものを、自分だけでたいらげてしまうのは気が引ける。高耶が問うと、直江は笑って言った。 「私は外で済ませてきましたから、気にしないで全部食べてください」 「……変な奴」 「……は?」 思ったことをそのまま口にした高耶の呟きに、直江が首を傾げる。 「……お前、何考えてるんだ? 見ず知らずの人間に、しかも血まみれになってた奴を連れて帰ってきて、どうするつもりなんだ?」 「……どうして欲しいんですか? 貴方は」 逆に聞かれて、高耶は面食らった。 「……っかやろ。 オレが殺人犯かなんかで、お前を殺そうとしたらどーすんだよっ」 本当に、そうかも知れないのに。 自分の中にある恐怖を押し殺すようにぎゅっと拳を握りしめる。 直江は苦しむように眉根に皺を寄せる高耶を見つめていた。 「……身に覚えでもあるんですか?」 「…………ッッ!」 驚きに見開かれた双眸にはとっさに沸き上がった怒りが閃いた。だが、すぐにそれは苦悩になり、怯えるような不安に満ちた色に変わる。直江の顔を正視できずに顔を背けると、彼の口から決定的な一言が発せられた。 「今日、私はある男の死体の傍で貴方を見つけました」 「…………ッッ!」 息を飲んだ高耶は、低く呻いて頭を抱え込んだ。 やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。 「……貴方は死体の傍に座り込んで、窓の外を見上げていました。まるで夢でも見ているような虚ろな目をして、私に向かって『朱い月』と言ってから意識を失ったんです。……覚えていますか?」 高耶は無言で首を振る。 当然だろう。あの時の記憶があるなら、さっきまでの和やかな会話ができるはずもない。今の彼の苦悩もあり得ない。 「……あれは、夢だと思ってた。とびきりの悪夢……。でも、目が覚めるとオレは血まみれで……。そっか……また、死体があったのか。じゃあ、オレはほんとに殺人犯なんだな」 記憶もないのに、信じたくなどない。でも、二度目となればこれはもう偶然ではない。 どこで、こんなになってしまったのだろう? もう、狂っているのかも知れない。だから、記憶がないだけなのかも知れない。 あまりの絶望に、涙すら出てこない。 ただ声を殺して両手で顔を押さえていると、ソファがギシ、と軋んで隣に人が座る気配がした。ふいに髪を梳く指先の動きに、びくりと身体を強張らせる。 「……な、おえ?」 震える声で名を呼び、恐る恐る顔をあげると、優しい鳶色の瞳と目があった。 直江は高耶は犯人でないと確信していた。 根拠はと問われれば、確たる理由を述べることなどできないが、彼にはあんな残忍なことはできないと思ったのだ。 赤い血と月の光を浴びて、死の女神のように微笑んだ高耶。 妖しくも美しい姿に直江は心を奪われたが、やはりあれは正気の彼の姿ではなかったのだ。何かの理由であんな状態になっていたとしても、彼は決して人を殺すような人間ではあり得ない。 強いけれどもどこか脆い、本当の彼を守りたいと直江は強く思った。 「貴方は、殺人犯なんかじゃありませんよ」 直江の言葉に、高耶は驚いて目を見開いた。が、すぐに信じないとでもいうように首を振った。 「……気休めなんかいらないっ。お前だって、死体を見たんだろう? オレの足元に転がってる、血まみれの……」 「確かに。でも、私は違うと思います。貴方が犯人ならば、犯行に使った凶器はどうしたんですか?」 「え……?」 思いもよらなかったことを聞かれて、高耶は面食らった。 「そ、それはオレがどっかに捨てたんじゃ……」 記憶が曖昧ではっきりしないので、きっぱりと言い切ることができない。高耶は口ごもり、また俯いた。直江はそんな高耶を元気づけるように肩を掴んで言った。 「それはあり得ないと思いますよ。貴方は最初、私の声が聞こえないくらい陶酔していた。目は虚ろでしたし、手足もまともに動かせない様子でした。そんな状態で自分の犯行がばれないように凶器をどこかに捨てるなんて、できるはずがない。そのくらいなら、死体のある現場にぼんやり座り込んではいないと思いますよ」 もっともな理由を並べ立てられて、高耶はようやく少し顔を上げた。怯えながらも、本人よりも高耶の無罪を信じている男を見つめる。 「……本当に、そう思うのか?」 「冷静に現場の状況を考えればね。−−現職刑事の勘を信じてください」 「な、にぃっ!?」 またしても高耶は驚きに、目を剥いた。 「おま……っ。刑事……?」 直江は少し笑って懐から黒い手帳を取り出した。ついでに中身をひらいて写真のついた証明証を見せる。 「警視庁の捜査一課、直江信綱警部補……」 呆然と呟き、何度も本人と写真を見比べる。 「……お前。刑事がこんなことしていいのかよ?」 いいわけがない。捜査情報と重要参考人の隠匿だ。ばれればただでは済まない。 それでも、直江は高耶を彼らに渡したくなかった。あの状況で捕まれば、重要参考人どころか、即犯人扱いだったろう。こうして彼が犯人でないと確信した以上、直江は自分のしたことが正しかったと改めて思った。 「よくはありません。でも、あの状況では貴方は犯人として即座に起訴されてもおかしくはなかった。それだけは、させたくなかったから……」 直江の言葉に、高耶は首を傾げる。 「……なんで? どうして、オレなんかを庇うんだ?」 当然の疑問を口にする高耶に答えず、直江はそっと腕をまわして高耶を抱き寄せた。 「なっ、直江っ?」 男に抱きつかれるなんて、普段の高耶ならば言語道断な話だったが、直江の腕の中は暖かくて、久しく忘れていた安らぎすら覚えた。嫌悪どころか、心地よいとすら思った自分自身に驚きながら、高耶は直江の言葉を待った。 「……それは、貴方を好きになってしまったから……」 「……直江」 出逢ったばかりだとか、同性だとか、そんなことはどうでもよかった。 −−ただ、彼が愛しい。 あの時はこんなにはっきりしていなかった自分の気持ち。でも、おぼろげなその心に素直に従っただけだ。 突然の告白に、高耶が躰を硬くしているのが感じ取れた。 「……気持ち悪い、ですか? でも、この気持ちを偽ることはできない。貴方が嫌なら、このまま自由にしてあげるから……」 直江の言葉を、高耶の指先が遮る。小さく笑ってから、そっと唇に押し当てた指を離して自分からも直江を抱き返した。 「気持ち悪くなんかない……。庇ってくれて、ありがとう。直江」 この安らぎは、直江が自分に向けてくれている感情とは違うものなのかも知れない。 でも、今は、この安らぎを手放したくない……。 それに、自分の本当の姿を見極めるためにも、直江は必要だった。 自分勝手な思惑のために、彼を利用しているだけかも知れない。それを、綺麗な言葉で取り繕っているだけかも知れない。 そう考えると直江に対する罪悪感が心の中に募った。 直江はそんな高耶の胸中を見透かすように瞳を覗き込み、ふわりと微笑んだ。 ……そして、どちらからともなくゆっくりと唇が重なり合う。 真実への一歩を、二人は踏み出したのだ……。 いたち茶屋さんでUPしていただいていた作品の再UPです。 直江、手が早すぎ……;; |