朱い月の檻
Written by とらこ
第三話 そこは昼の間も薄暗い闇に閉ざされていた。 籠もった空気は澱み、饐えた匂いが満ちている。 男は、壁に凭れて自分を囲んで怯えたようにすくんでいる連中を睥睨した。ろくに食事も睡眠も摂っていない双眸は血走り、異様な迫力を醸し出している。それでなくとも普段から気まぐれで凶暴な支配者は、更に危険な空気を纏い始めていた。 誰もが、ここから逃げ出したかった。だが、そんなことはできない。彼に背を向けた瞬間に、背中にナイフが突き立てられるだろう。自分の命を守るためには、彼を極力刺激せずにその望みに従うことのみ……。 だが−− この数日彼の苛立ちは増すばかりで、時折破裂する癇癪のおかげで既に三人の仲間が犠牲になった。 「……まだ、見つけられねぇのか?」 地を這うような声に、彼らはらしくもなく自分の肩が震えるのがわかった。人を傷つけることも、警察も怖いと思ったことはない。……だが、目の前に居るこの男だけは、彼らに絶対的な恐怖を与えるのだ。 物理的な圧力すら感じさせる言葉に、答えるべき声は喉の奥で詰まっている。それでも、ひとりがようやく絞り出すような声で返事を返した。 「……すいません。まだ……。もう少し、時間をください」 瞬間、男の拳が壁を殴る大きな音が室内に響いた。震える拳が、男の怒りの大きさを雄弁に物語っている。 「その言葉はもう聞き飽きたんだよ! 早く奴を捜し出して俺の前に引きずってこい!」 男の怒声に弾き飛ばされるように、彼らはばたばたと駆けだしてゆく。ものの十秒もしないうちに室内から人影が消えて、男がひとりだけ残された。 「……くそぉ!」 募る苛立ちを必死に押し殺しながら、彼が懐から取り出したのは、白い粉末と細身の注射器が入ったケース。傍に転がっていたミネラルウォーターのペットボトルを手にとって、粉末をほんの少しの水で溶いた。それを注射器の中に吸い取って、ためらいもなく自分の腕に突き刺す。 浸透する液体。それにつれて広がる現実離れした陶酔感に、男は酔った。 でも、足りない。 もっと、刺激が欲しい。 肉を切り裂く生々しい感覚。視界を埋める、真っ赤な血潮。 人の命を奪うという、最高の快楽。最高のゲーム。 だが、今はできない。 まだ、彼の中に僅かに残った理性が、警鐘を鳴らす。 −−あいつが、いないと……。 「……早く、戻ってこい。……哀れな、操り人形……」 あきらかに常軌を逸した、狂ったような笑い声が室内に響き渡る。 いつまでも、いつまでも……。 * *
−−あれから一週間。 高耶は直江に匿われてマンションで暮らしていた。 あのおぞましい夢を見るたびに、少しでも手がかりがあればと直江に事細かに話しているが、相変わらず曖昧な夢は確信を見せない。よって、手がかりになるはずもなく、最近高耶は沈んでいることが多くなった。 そして、高耶を落ち込ませている最大の原因が、もうひとつ。 例の事件が、あの時以来ぱったりと止んでいるのだ。高耶が正気で普通に生活を始めてから犯行が途絶えたことが、自分自身への密かな疑念を強めているのだ。 やはり、自分が人殺しだったのではないか? だから、今は犯行が止まっているのではないか? 直江が宥めてくれることで一時の安息は得られるものの、すぐに不安は高耶に取り憑いて一向に離れようとはしない。 今日も暗い面持ちでふさぎ込んでいる高耶の肩を抱いて、直江は優しく髪を撫でた。 「……また、考えているんですか?」 「……ごめん」 捜査が一向に進展せず、未だに目新しい事実を掴めていない直江は、安易な慰めも口にできずにいた。 「高耶さん。前から一度聞こうと思っていたんですが、貴方の周囲にいた人間の中に赤い髪をしている人はいませんでしたか?」 「……赤い、髪?」 鸚鵡返しに呟いた瞬間、さっと頭の中をよぎった人の影に、ぞわりと肌が粟立った。 (……な、に……?) 名前も、顔も、はっきりしたものは何一つ出てこないのに、恐怖と憎悪がないまぜになったようなどす黒い感情だけが沸き上がってくる。 ……セ! ずきりと激しい痛みが頭を突き抜け、男の声が頭の中に聞こえてきた。 ……モット、血ガ見タインダ! 「ひ……っ」 かすれた悲鳴を上げて、両手で耳を塞ぐ。尋常でない高耶の様子に、直江は慌てて肩を抱いて宥める。 「高耶さん! 大丈夫ですか? 何か、心当たりがあるんですか?」 「……わ、かんねぇ。……でも、なんか怖い……!」 額に脂汗を滲ませて、しまいには虚ろな目をしてガタガタと震えだしてしまった高耶は必死に直江に縋りついた。 「……すみません。大丈夫ですか?」 「……平、気」 少しすると震えは治まったものの、直江に心配をかけまいと強張った笑みを浮かべる顔色は真っ青だ。 「無理しないで」 落ち着かせるように高耶の背中を何度もさすりながら、直江は思う。 高耶の傍にも、赤い髪の男がいる。 だが、確たる記憶も証拠もない。 故意か偶然か、高耶の記憶は厚いベールに閉ざされている。 どうして忘れているのか、その原因を突き止めるためには、高耶が以前どういう生活をしていたのかが大きな鍵になる。高耶をここに連れてきて以来何度も尋ねたが、彼は言葉を濁らせて喋ろうとしない。が、今回は直江も少し語気を強めて、言い逃れさせない覚悟で口に出した。 「高耶さん。貴方は私と会う以前にどこでどういうふうに生活していたんですか? これは貴方の失われている記憶を思い出すためにも、今回の事件にとっても重要なことなんです。お願いですから話してくれませんか?」 これまで何度となく見た、複雑そうな高耶の表情が目に入る。 「……わかってる。でも、きっとお前はオレを軽蔑するようになるから……」 言いたくない。 今の高耶にとって唯一と言っていい、頼りにできる人間に軽蔑されてしまったら、どうしたらいいのかわからない。 「高耶さん。私は貴方を軽蔑したりなんて絶対にしません。……それとも、私がそんな安っぽい偏見を持っている人間に見えますか?」 「そんなことないっ!」 自分の職務に反してまでこうして匿ってくれている直江を、高耶は信じている。 自分の中に巣くう愚かな不安を振り払うように数回頭を振ってから、高耶は決心して顔を上げた。 「……全部、話すよ。……その代わり、オレが以前暮らしていた辺りに連れて行ってくれないか?」 「それは駄目です! 危険だ!」 取り付く島もなく即答する直江に、尚も食い下がる。 「でも! その辺りを見て歩けば、何か思い出すかも知れないだろ?」 「……しかし」 「頼むよ、直江。お前が傍にいてくれれば、危ないこともないって。きっと」 直江は少しの間黙り込んで考えていたが、おもむろに深く頷いた。 (いっしょにいれば、大丈夫だろう) すべての真実を見極めるためには、多少の危険もしかたがないとムリヤリ自分を納得させて、車のキーを持って立ちあがる。 「……どこへ、連れて行けばいいんですか?」 「……新宿」 * *
新宿へ向かう車の助手席で、高耶はぽつぽつと話し始める。 「オレ、地元は長野なんだ。高校までは松本にいたんだけど、中退してこっちに出てきたんだ」 「……差し出たことを訊くようですが、御家族の方は?」 「ん? 妹がひとりと、親父がいたよ。中学の時に親父が事業に失敗して酒浸りになってさ。暴力まで振るうようになって、耐えかねたオフクロはオレ達を捨てて逃げちまった。オレは妹……美弥を守りながらがんばってきたけど、もう我慢できなくなって、美弥を親戚に預けてこっちに逃げてきちまったんだ」 そう言って言葉を切った高耶の横顔は、痛みを堪えるように歪められていた。 一時の激情にまかせて家を飛び出してしまったものの、残してきた妹のことを思い、深く後悔しているのだ。しかし、今更どんな顔をして帰ればいいのかもわからず、彼は悩んでいる。 「……こっちに来たってマトモな仕事につけるはずもねぇし、それでもコンビニでバイトとかしながらなんとか生活してた。……そんな時に、あいつらに声をかけられたんだ」 声が僅かに緊張し、高耶の表情が曇る。 「あいつら、ずっとオレを監視してたみたいなんだ。仕事してるとことか、喧嘩してるとことか。自分たちの思うように使える奴かどうか……。連中、オレが生活に苦労して金に困ってることを持ち出してきて言ったんだ。『仕事しないか』って」 「……仕事?」 鸚鵡返しに聞き返す直江に、高耶は一瞬躊躇したが、ためらいがちに口を開いた。 「……運び屋だよ」 「……っ!」 「あいつらは自分たちの手足になって働く奴が欲しかったんだ。自分たちはもうやばいことし過ぎて警察に目をつけられてるから、新しい仲間が……。口が固くて仕事がこなせて、ついでに喧嘩の強い奴が欲しかったとこだって言ってた。……金に困ってて、そのためならなんでもするような人間に見られてたんだよな」 外見にまで現れた荒みきった自分の心を見透かされたような気がして、高耶は少なからずショックだったのだろう。少し黙り込んでから言葉を続けた。 「でも、オレはきっぱり断ったんだ。そんなことして美弥や、あの最低な親父にまで顔を向けられなくなるのはごめんだ!」 吐き捨てるように言い放つ高耶の表情には、言いようもない嫌悪が宿っている。 しかし、はっきりと拒絶することぐらいで、簡単に連中が諦めるとは思えなかった。 高耶はその連中に狙われているのではないか? 直江はそのことを訊こうとしたが、急に高耶は顔を上げて車を止めるように言った。 「この近所のアパートなんだ。オレが住んでたのは。ここから歩いてもいいか?」 言うや否やドアを開けて出ていく高耶に、直江は慌てて声をかける。 「待って、高耶さん! ひとりで行動しないでください!」 「わかってるって。だからこーして待ってるだろ。早く降りてこいよ、直江」 しかたないとでも言うように肩を竦めて、後を追って車を降りる。少し脇道に入ったその辺りはお世辞にも治安がいいとはいいにくい場所だった。木造の建物で、やたらと壁の薄い防犯性に欠けるボロボロのアパートが、高耶が直江と出会う以前に住んでいたところだという。今時こんな建物が残っていたのかと妙なことに関心しながら、直江は外観を眺めた。 「すごいとこだろ? お前のとこと比べたら粗大ゴミでできてるみたいだな」 「そんなことは……」 「ははは。無理すんなって」 高耶はからからと笑いながら、いろいろなことを話してくれた。このアパートには風呂がついてないから、通っていた近所の銭湯のことや、屋根が雨漏りすること。修理しようとして屋根に大穴をあけてしまい、大家に怒鳴られたこと。たあいのないことをしゃべりながら、笑いあう。期待していたようには途切れた記憶は戻らなかったが、直江にとっては高耶の色々な面を知ることができて楽しい一時だった。 −−だが、そんな光景をひそかに見ていた視線があったことに、二人はまったく気がついていなかった。 「……あれはっ!」 見知った青年の姿をようやく見つけた男は、我知らず口元に笑みを浮かべる。 「どうした?」 一緒に歩いていた男が、突然足を止めた彼に首をかしげながら声をかけてきた。 「……見つけた。みんなを集めろ」 その一言で、彼が何を見つけたのか悟った男は、顔色を変えて僅かに強張った仕草で頷いた。 マリオネットに繋がれた糸は、切れていなかった。 手繰り寄せるように今、なくしていた記憶の扉が開こうとしていた……。 |