朱い月の檻



 
Written by とらこ


最終話


 高耶はそれから丸一日の間、こんこんと眠り続けていた。
 その間に警察の捜査で、あの廃ビルの地下の更に下層から埋められていた三体の遺体が発見された。それらはいずれも斯波の仲間だった少年達で、レッドラインを常用し続けておかしくなった斯波が殺したのだと、直江が捕らえた少年がすべて自白した。無論、今までの売人連続殺人も斯波の犯行で、最初は売人との言い争いが原因だったのだが、次第に人殺しというゲームが楽しくなり、血に狂っていったのだという。唯一、吉村を殺したことだけは例外的で、彼に警察が目をつけたことを知り、足がつかないうちに始末したものらしい。
 そして、斯波が高耶にあれほどこだわっていた理由は、彼の体質を利用して自分の身代わりに罪を被せようとしたからだという。
「仰木の奴は、最初は運び屋をさせるつもりだったんだ。でも、あいつ、怒って断りやがって……頭にきた斯波さんが無理矢理クスリ打って仲間にしようとしたんだ。……でも、あいつクスリが効かない身体でさ。オレ達みたいに気持ちよくならないみたいだった。起きてるのに、まるで寝てるみたいにぼーっと座り込んでるだけでさ。またクスリが欲しくなったり、禁断症状が出たりしないんだ。−−ただ、クスリが残ってる間の記憶がなくなるらしかった。だから、斯波さんはそれを利用して、あいつに自分の殺しをなすりつけようとしたんだ。『あの目が気に入らねぇ。堕ちるとこまで、とことん堕としてやる』って……」
 かくして、高耶の容疑は晴れた。
 薬の件は斯波に無理矢理打たれたものだし、情状酌量で罪にはならなかった。斯波を誤って刺してしまったことも、襲われてもみ合った上でのことなので正当防衛という扱いになったのだ。ただ、事件の参考人として話を聞く必要があったので、身柄は警察病院の方へ収容された。
 それから丸一日。直江は一睡もせずにずっと傍に付き添っていた。
 今回の件で直江がしていた職務違反や、斯波の射殺の件で上司に呼び出されていたが、鮎川のとりなしで高耶が目覚めるまでの間、時間をもらったのだ。
 どうせ懲戒免職になるのはわかりきっている。しかし、直江自身不思議なほどこの仕事に対する未練はなかった。今はただ、この殺伐とした仕事を早く離れて、穏やかな生活がしたかった。平和な生活の中で高耶の心を休ませ、早くこの嫌な出来事を忘れさせてやりたかった。
「……高耶さん」
 そっと呟いて、手を強く握りしめた時だった。ぴくりと直江の手の中で高耶の指先が動いたのは。
「高耶さん?」
「……ん……」
 立ちあがって上から覗き込むと、ゆるゆると瞼を開いた高耶が、室内の明かりに眩しそうに目を細めた。
「……直江?」
「気がついたんですね。……よかった」
「……ここは?」
 ようやく目が慣れると、見たことのない室内の様子を訝しんでゆっくりと身体を起こした。
「病院ですよ。あの時意識を失って、そのまま丸一日眠っていたんですよ。……あぁ、喉が渇いたんじゃありませんか? お腹はすいていませんか?」
 冷たい水の入ったコップを差し出すと、高耶は素直に受け取ってひとくち口に含んだ。
「……直江」
「何ですか?」
「……オレ、すごく怖い夢を見たんだ。…赤い髪の、あの男がいる檻みたいな狭い地下室に連れ戻されて……オレは揉み合いながらあいつを殺しちまった……。あいつからもぎ取ったナイフが……」
 最後は震えて声にならない。直江は高耶の手を握って、静かに言った。
「……それは夢じゃありません」
 瞬間、俯き加減だった顔をばっと上げて、高耶は絶望に満ちた目で直江を見つめた。
「……夢じゃ、ない。……じゃあ、オレはほんとにあいつを殺ししまったのか……」
「いいえ。それは違います! あの男を殺したのは私です」
「……な、お……え?」
 信じられない言葉に耳を疑う。
「斯波を誤って刺してしまった貴方は、すっかり茫然自失の体に陥っていました。あのままでは貴方の方が殺されていた。−−だから、私が斯波を撃ち殺したんです」
 この世の誰よりも大切な、貴方を守るために……。
「……だから、貴方がこれ以上あの男のことで苦しむ必要はない。事件も解決して、貴方はようやく自由になったんですから」
「……自由? でも、オレは……」
 無理矢理とはいえ麻薬を打たれ、もみ合った末の偶然とはいえ人を刺してしまったのだ。斯波からは確かに自由になれたが、警察が方っておいてくれるはずもない。
 そう思って沈んだ面持ちをしている高耶に、直江は小さく笑ってから今回の件に対する警察の高耶への処分を教えてくれた。
 それを聞いたとき、高耶はとうてい信じられない心境で双眸を大きく見開いた。
「……嘘、だろ? 正当防衛……?」
「嘘なんかじゃありませんよ。参考人として少し事情聴取があるでしょうけど、それが終われば本当に自由なんですよ」
「……夢、みたいだ」
 ほんの少し前の、逃げ隠れしていた頃が嘘のように、晴れ晴れとした気持ちが高耶の中に広がってゆく。しかし、気になることが一つ残っている。そのことを、高耶はなかなか口に出せずにいた。
 そのうち、コンコンと控えめなノックの後で、少しだけ開けたドアから鮎川が顔を覗かせた。
「お、目が覚めたようだな」 
 見たことのない人間に高耶はわずかに身体を緊張させる。それを見て直江は小さく笑った。
「高耶さん。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。彼は私の友人で同僚の鮎川です」
「話、できるかな?」
「あ、はい」
 返事をした高耶に頷いてから、打って変わった苦々しい表情で直江の方を見る。
「……行って来い。お前の処分が決まったらしい」
「……わかった」
 至極穏やかな表情で深く頷いて、高耶に向かって言った。
「なるべく早めに戻りますから。今日一日は安静にしていてくださいね」
「……うん」
 直江が病室を出ていくと、代わりに鮎川がベット脇の椅子にどっかと腰掛けた。
「さぁて、何から聞いたもんかな」
「その前に、鮎川さん。教えてくれないか? ……直江の処分って」
 尋ねると、鮎川は苦虫を噛み潰したような表情になって高耶の額を指先で小突いた。
「お前さんのことでだよ。事件の重要な証人の隠匿に、犯人の射殺。……こいつが大問題でな。ここは日本だ。アメリカのFBIじゃないんでな。いくら凶悪犯人でも殺しちまったらマスコミがうるさいんだよ。上の責任問題になっちまうからな。……知ってるか、坊主? 日本の警察じゃあな、拳銃撃つと出世できないんだぜ」
「……じゃあ、直江は……」
「停職か、悪ければ懲戒免職ってとこだな。……もっとも、あいつはもう辞めるつもりのようだがな」
 鮎川の言葉に高耶が驚きの声を上げる。
「なんで!?」
「それは俺にもわからんよ。……まあ、元々何で刑事なんぞやってるのかわからんような家の奴だからな。これがいい機会なのかもな」
 直江の実家は栃木でも有数の大きな寺で、長兄が不動産業を営んでいるせいもあり、この御時世に大層な羽振りなのだという。次兄が寺の方を継いだので、長兄は直江を手元に置きたかったらしいが、当の本人は何を思ったのか刑事という職業を選んだ。だから、直江はあんな豪勢なマンションに住んでいたのだ。
「こんな殺伐とした仕事、早く辞めた方が奴のためってもんだ。……坊主。お前もさっさと汚い世界とは縁を切るんだぞ。ふらふらしてるからこんな事件に巻き込まれて犯人にされそうになった挙げ句、命まで取られそうになるんだぞ」
 まだ若いくせに説教臭い鮎川に苦笑しながらも、深く頷く。
「……わかってるよ」
 高耶の言葉に嘘はない。
 すべてが片づいたら、一度松本に帰ってみようと高耶は思っていた。今の自分ならば、もう少し父親と分かり合えるような気がしていた。
(……ああ、美弥にも謝らなきゃ。あいつには苦労ばっかさせてるしなぁ)
 直江のおかげで危うく拾った命。今、ここにいて生きているという喜びを、高耶は深く噛みしめた……。


*  *


 そして、二年後……。
 信州の避暑地の一郭に、一件のペンションが今日オープンする。オーナーは不動産業を生業にしている直江の長兄である。そこで住み込みで働くことになったのは直江と、そして……。
「直江! 今日のメインディッシュの肉がない! 冷蔵庫の奥に置いといたのに」
 慌てふためいて厨房から走ってきたのは白いシェフの服装に身を包んだ高耶である。
 あの事件の後、直江は鮎川の予想通り警察を辞め、しばらく長兄の仕事の手伝いをしていたのだ。その一方で高耶は一度故郷の松本に帰り、新しい自分の道を模索し始めた。
 そして決めたのが、得意な料理を生かして調理師免許を取り、シェフになること。
 アルバイトをしながら学校を出て、しばらく都内の店で働いていたが、その頃は既に恋人という関係になっていた直江に一緒にペンションで働かないかと誘われて、この信州へやってきたのだ。
 今日は記念すべきオープンの日。鮎川や、高耶の父、美弥を招待してささやかだがパーティをしようということになっていたのだが……。そのために特上のステーキ肉を取っておいたはずなのに、いつのまにかそれが消え失せていたので高耶は驚いて直江に尋ねたのだ。
「え? あれ、今日のメインだったんですか?」
 問い返す直江の顔色には僅かに焦りが浮かんでいる。アヤシイと睨んだ高耶はじろりと睨みつけた。
「あれがどこにいったか知ってんのか?」
「……ははは。昨夜、私たちのお腹に入っちゃいましたよ」
「なにぃっ!」
 オープンの前日ということで色々な準備に追われていた高耶の代わりに、昨夜は珍しく直江が夕食の支度をしてくれたのだ。あの時の感謝の気持ちはどこへやら。こみ上げてくる怒りにわなわなと拳を震わせる。
「なんてことすんだ、馬鹿! おかげでメニュー変えなきゃなんなくなっちまったじゃねーかっ!」
「し、しかたないじゃないですか! だいたいあんなすぐ目に付くところに置いておくのもいけないんですよ。メイン用ならそうとわかるようにしておいてもらわないと……」
「……だって。まさかお前が夕食作ってくれると思ってなかったからさ……」
 意外なことだったのでひどく嬉しくて、そのステーキの出所など気にも留めていなかったのだ。確かに何も言っておかなかった自分も悪いような気がする。かっとなって怒鳴ってしまったが、すぐに俯いて小声で謝る。
「……ゴメン。オレの方も悪かったよな」
「……いえ。私の方こそ、貴方にちゃんと確かめてから使うべきでしたね」
 お互いに顔を見合わせて、くすりと笑いあう。
「あーあ。これからずっとここで一緒に暮らしていくのに、最初からこんな調子じゃ先が思いやられるぜ」
「大丈夫。いくら怒られても、私はずっと貴方を愛してますから」
「……言ってろよ」
 呆れた表情で嘆息する高耶の身体を引き寄せて、軽く口づける。照れて頬に朱を散らし、僅かに俯く高耶が愛しくてならず、直江はぎゅっと抱き締めた。
 あの凄惨な事件をすっかり忘れて、精神的にも全快したかに見える高耶だったが、まだ時折悪夢にうなされていることを直江は知っていた。でも、直江がそっと高耶の手を握ってやると、またすぐに穏やかな寝息に変わってゆくのだ。
 幸福な日々の中で、いつかその悪夢も消えてゆくだろう。


 −−朱い月の夢はもう見ない……。




END



 

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