朱い月の檻
Written by とらこ
第五話 「ひ……っ!」 声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。 身体の底から突き上げてくるたとえようのない恐怖が、封じられていた記憶の扉を一気に開け放つ……。 * *
あの時、耳を覆いたくなるような断末魔の悲鳴で意識が急速に覚醒した。最初に目にしたものは、鈍く光る血まみれのナイフと、足元に転がる無惨な死体だった。それを見下ろしながら、狂ったように嗤う朱い髪の男−−斯波英士。 麻薬に狂った、この男が殺した。 『お前も、これで共犯だ』 −−もう、逃げられない。 高耶をつかまえようと伸びてくる大きな手。必死の抵抗も空しく捕らえられ、その後の記憶はしばらく途切れている。 次に意識が浮上した時、高耶の周囲は真っ赤に染まっていた。すぐ横に転がっていた、物言わぬ肉塊と化した人間の身体。血まみれの自分。 ついに、薬で何もわからなくなっているうちに人を殺してしまったのかと思った。 運悪く通りかかった人が上げた悲鳴に驚いて、とっさにその場から逃げ出したが、どこにも行くあてがなくてしかたなく自分のアパートに隠れていた。しかし、容易く見つかってまた連れ戻された。 『お前。おもしろいな』 そう言ってくつくつと嗤った斯波が、痛いくらいの力で腕を掴む。 『……そうだ。お前は俺の身代わりの人形だ』 斯波の言っている意味がわからず、高耶はやみくもに抵抗して叫び散らした。その様子さえも斯波にとっては滑稽で、また狂ったように甲高い声で嗤った。 『あがけ、あがけ。何をしようとお前は逃げられない。この俺からはな!』 その後すぐに腕に鋭い痛みを感じて、またしても意識がブラックアウト……。 * *
そして、直江と出会った時には恐怖のあまり、この斯波英士という男の存在を記憶から消し去ってしまっていたのだ。 あれだけ必死になって思い出そうとしていたことが、今更のように悔やまれる。忘れたままでいられた方が、ずっと楽だったのに。 怯えて震える高耶を見てニヤリと嗤い、斯波は傍らに落ちていたナイフを拾い上げた。付着した血をろくに洗い流しもせず、すっかりこびりついてしまって斑に染まったグロテスクなナイフ。 「……さぁ、影の主役が帰ってきたところで、久しぶりのパーティといこうか。……俺はもう我慢できねぇんだよ。……ころころと他愛なく死んでいく人間が見たいんだよ。……でも、お前がいないとすぐに足がついちまうからな。ずぅっと我慢してたんだぜ。これでも」 「……どういうことだ!?」 気丈に聞き返してくる高耶に、斯波は口元を歪めて答えた。 「お前自身はわかんねーだろうけどな。この最高のクスリ、レッドラインってやつはお前には効かないらしくてな。俺にとっては最高の快楽をくれるクスリも、お前にとってはただのスイミンヤクも同然ってわけだ。しかも前後の記憶は曖昧で覚えてない。そんな面白い奴、利用しない手があるかよ?」 「……じゃあ、オレが人を殺したんじゃないのか……?」 「ふん。ぼけっとして指先ひとつまともに動かせない奴に人は殺せねーわな。……言っただろう? お前は俺のマリオネットだと。俺の代わりに罪を被って逃げ回ってればいいんだよ! ……俺はお前が逃げてる間もどんどん殺す。こんな最高に面白いゲーム、やめられっかよ。……知ってるか? 人間てのは死に際が一番いい顔するんだぜ。この俺に命乞いをして、馬鹿みたいに泣き叫ぶ。絞め殺されるニワトリみたいな悲鳴を上げる喉を切り裂くのが最高に気持ちいいんだ。……たまらないぜぇ」 斯波の目は充血して赤くなり、まっすぐに高耶の方を見据えてはいるが、彼にしか見えない妄想を映しているようで完全に常軌を逸している。 (……誰か。直江……直江!) なんだか唐突に直江の顔が思い浮かんだ。ものすごくイイ男なのに、ちょっと変わってる型破りな刑事。優しくて、自分を庇い、匿ってくれた唯一の人。 たった一週間一緒にいただけなのに、いつのまにかすっかり心を許してしまっている自分に高耶は今頃になって気がついた。 でも、必ず守ると約束してくれた彼はここにいない。 生きて、また彼に逢いたいと願う心が、不思議と絶望的な恐怖を拭い去ってくれた。 ここで簡単に屈するわけにはいかない。 (……これ以上こんな奴のいいようにされてたまるか!) 誰一人、直江も頼ることは出来ない今の状況が、逆に高耶の気持ちを奮い立たせてゆく。 ぎゅっと拳を握りしめ、毅然として斯波を睨みつけると、相手は馬鹿にしたように口元を歪めた。 「……なんだ? その目は? 俺に逆らうのか。人形のくせに」 「オレは人形なんかじゃない! 黙ってお前の身代わりになんかなるものか!」 刹那、斯波の目の色が変わる。酷薄な、しかし比較的落ち着いていた光が失せ、暗い愉悦に歪んで濁った色が浮かび上がる。得体の知れない恐怖を敏感に感じ取って、高耶は思わず息を飲んだ。 「……じゃあ、死ねよ」 「斯波さん!?」 周囲が訝しむ声を上げた瞬間、ヒュッと風を切って銀色の光が高耶の目の前を過ぎる。とっさに身を引いたが、頬にちくりとかすかな痛みが走る。かわしきれなかったナイフの切っ先が頬を裂いたのだ。 「斯波さん!? 仰木は身代わりにするんじゃ……ッ!」 驚いた周囲の連中が声を上げると、ちらりと視線を向けただけで無言のうちに仲間だった男の無防備な喉を切り裂く。 「…か、は……ッ」 滝のように溢れる血を止めようとするように両手で喉元を押さえながら男は床に崩れ落ちる。それをきっかけにして、連中の中に押し隠されていた恐怖が爆発した。 「うわあああぁッッ!」 パニックに陥り、我先に出口へと押し掛ける。 「こんなのはもう嫌だぁ!」「早く行け!」「死にたくねぇよ!」 口々に叫びながら逃げだそうとするのを片端から引き倒し、あるいは背後から腕をまわして拘束しては次々と首をかき切ってゆく。もはや、麻薬によって狂ってしまった斯波には仲間と高耶の区別もつかないらしかった。 肉を切り裂く、えもいわれぬ感触と、血に酔って見境なく殺し続ける狂気の廃人。 「やめろ! この狂人がっ!」 高耶は堪えきれず、斯波の背に組みついて両腕を羽交い締めにした。が、物凄い力で振り払われて壁に叩きつけられる。 「く……っ!」 背中をしたたかに打ちつけて一瞬息が詰まる。が、間髪を入れず斯波のナイフが肉迫する。避ける暇もなく、とっさに腕を伸ばして相手の手首を掴んだ。 「もう、やめろぉ……っ!」 力を込めてぎりぎりと押し戻すが、それ以上に斯波の力は強く、じりじりと次第に高耶の目の前に刃が迫る。 「…こんなところで、殺されてたまるかぁ……ッ!」 ぐい、と一気に押し返した瞬間、不意をつかれて足を払われて二人は縺れるように床の上に転がった。幾つもの死体から流れた血で、あっという間に全身が真っ赤に染まる。 「ひゃはははァッ!」 尚も振り下ろされるナイフをもぎ取って、腹部を思い切り蹴り飛ばす。床の上をごろりと転がってぴたりと動くのを止めた斯波を見て、高耶は深い溜め息をつきながらよろよろと立ちあがった。 「……くそっ」 血まみれの忌々しいナイフを投げ捨てようとしたその時−−。 高耶の視界の端で、まさしく飛び上がるように素早く身を起こした斯波が、手近にあった注射器の残骸を掴んで再び襲いかかってきたではないか。 「仰木ィ! お前も死ぬんだよォ!」 「やめろおぉッ!」 とっさに手を突き出して相手の動きを止めようとした瞬間、ざくりと鈍い音がして軟らかい肉に刃が突き立つ、嫌な感覚が手から全身に伝わった。 「え……?」 恐る恐る視線を下げると、ようやくもぎ取った凶器のナイフが当の斯波の腹部に突き刺さっていた。 「…が、は……ッ」 身体を折って苦悶する斯波。そのナイフを自分で抜き取って、苦し紛れにその場に固まって立ちつくしてしまった高耶めがけて振り下ろす−−! 瞬間、耳をつんざく轟音が響き渡る。 狭い室内にこだまする音が反響しながら消えていく中で、斯波の身体がまるでスローモーションのようにゆっくりと倒れてゆく。一瞬のうちに物言わぬ肉塊と化して床に転がった斯波の身体を、高耶はただ呆然と見つめていた。 「高耶さん!」 声のする方へ首を向けると、銃を懐にしまった直江がこちらに駆けてくるところだった。 「……な、お…え…」 「大丈夫ですか? 怪我は!?」 畳みかけるように尋ねてくる直江の声など、ほとんど耳に入っていなかった。生まれて初めて刃物で人を刺してしまった生々しい感覚と、血の赤。倒れた斯波の身体。すべてが一気に押し寄せてきて、高耶の意識を混乱させる。 「あ……あ……」 「……高耶さん?」 訝しげに見つめる直江の方を見返してはいるが、そのめいっぱい開かれた瞳には何も映ってはいない。混乱した思考が繰り返す血まみれのシーンだけが高耶の視界を埋め尽くしていた。 「…なお……。オレが、殺した…。オ、レが……っ!」 しまいには全身がわなわなと震えだし、自分の血まみれの手を見つめる。 「…オレが……っ! イヤだぁ! 直江っ、直江……っ!」 「高耶さん! 大丈夫です! 貴方が殺したんじゃないから……! 高耶さん!」 半狂乱になって叫び散らす高耶を抱きすくめ、正気に戻そうと必死に宥める。狂ったように頭を掻きむしる両手を捕らえ、もう一方の手で頬を叩いた。 「……なおえ」 一瞬、高耶の瞳が正気の色に戻ったと思ったのも束の間。すぐに意識を失ってがくりと身体が崩れ落ちる。 「高耶さん!」 とっさに腰を抱きとめてぐったりとした身体を支える。腕の中にある確かなぬくもりに、直江はようやく安堵の息をついた。 その時、ようやく後に追いついてきた鮎川が地下に駆け込んできた。 「直江!」 銃声がした時はもしやと思い、真っ青になった鮎川だったが、無事な友の姿を見て深く息をついた。が、それも僅かのこと。改めて周囲を見回し、ゴロゴロと転がる死体の数に驚いてぎょっとなってしまう。とりわけ、胸部の急所にぽっかりと風穴の開いた赤い髪の男の死体を見て、鮎川は表情を曇らせた。その顔を、彼は写真で見て知っていた。今回の事件の犯人と目されていた斯波英士だ。 やはりこの男だったのかという思いとともに、何故撃ったのかという苦々しい疑問がこみ上げてきて、自然に苦虫を噛み潰したような面持ちになって直江に問うた。 「……お前。なんで撃ったんだ?」 「……しかたがなかった。少しでも遅れていたら、この人を永久に失ってしまうところだったんだ」 その言葉を聞いて初めて、彼が大切そうに抱きかかえている青年に気がついた。その手といわず、体中が血まみれで、鮎川は我知らず息を飲んだ。 「……そいつは?」 「……今はまだ。早くこの人を安全なところへ連れて行きたいんだ」 「……わかった。後できっちり説明してもらおう。−−今はとりあえず、置いてきちまった連中を引っ張ってこなきゃならん。それと救急車だな」 多くを語らずとも直江の意を汲んでくれた鮎川に、直江は頭の下がる思いがした。 「……すまない」 一緒に駆けつけてきた連中に連絡を入れるべく、外へ出た鮎川の後について直江も高耶を抱きかかえて外に出る。 青い顔をして意識を失ったままの高耶に、そっと頬を寄せて耳元に囁く。 「……高耶さん。もうすべて終わったんですよ。貴方を脅かすものは、何もないから……」 ……早く、目を覚まして。 −−そして、何の憂いもない、心の底からの笑顔を見せて欲しい。 直江は切にそう願った……。 |