想いの行方


Written by とらこ  


  後編


 城に着いて翌日の昼過ぎ。
 高耶はひとりで昨日のあの子犬だけを連れて湖のほとりに遊びに来ていた。
 こんな綺麗なところに連れてきてもらったというのに、高耶の表情は何故か晴れない。
(……こんなはずじゃなかったのに……)
 直江と二人で楽しい休暇になる予定だったのに……。
 自分でも理由のわからない不機嫌に取り憑かれているのが嫌でしかたない。
 −−理由はともかく、原因はわかっている。
 直江の従姉妹だという、綾子という女性のせいだ。
 何かというと二人で昔の話をしていて、高耶は間に入れないのだ。しかも妙に馴れ馴れしい態度が気に障る。直江の方も素っ気なくて、高耶のことなどまるで気にもかけていないような態度をするから、よけいに疎外感が強まってゆくのだ。
「なあ、オレおかしいよな。あの人と直江は親戚なんだから、親しいのは当たり前のことなのにさ……。こんな気持ちになるなんて、絶対におかしいよ。……これじゃ、まるで……」
 −−まるで、嫉妬しているみたいな……。
 そう口に出しかけて、高耶ははっとなった。
 今の自分の気持ちにぴたりとはまる、その言葉が示しているもう一つの心……。
 気がついてしまった瞬間に、高耶は激しく後悔した。
 −−気づかなければよかった、と……。
 赤くなったり青くなったりしている高耶の顔を不思議そうに見つめて、小首を傾げている子犬をぎゅっと抱き締める。
「馬鹿だな……オレ。こんな気持ち。受け入れてくれるはずないのに……」
 いつのまに、直江に対してこんな気持ちを持ってしまったのだろう?
 兄のように慕っていただけだったのに……。
 幾ら打ち消そうとしても、一度気づいてしまった想いをなかったことになどできなかった。直江の笑顔や、優しい表情が幾つも脳裏に浮かんできて、高耶の心を締めつける。
(……どうしよう。直江の顔、もう見れないよ……)
 高耶の哀しい気持ちを察しているかのように顔をすり寄せてくる子犬を抱いて、途方に暮れて湖の水面を見つめていたその時−−
「……やさん? 高耶さん。どこにいるんですか?」
 ふいに聞こえてきた直江の声にびくりと肩が震える。
(……どうしよう……!)
 今は会いたくない……。
 とっさに隠れようと思い立ち、子犬を地面に降ろして辺りを見回した。しかし、身を隠せるような場所が見つからず、そのうちに直江の声がだんだんと近づいてくる……。
 焦った高耶は湖の方へと駆けだした。湖岸といっても一メートル程度の崖で、険しい岩がネズミ返しになっているのだ。下は冷たい湖。落ちないように気をつけながら走っていたつもりだったが、内心の焦りに足元への注意がおろそかになってしまっていた。
 踏み込んだところにできていた水溜まりの泥にずるりと足を取られた瞬間、躰ががくりと安定を失って崩れる。しまったと思った時には既に遅く、高耶は冷たい湖の中に投げ出されてしまった。
「……ッッ!」
 躰の芯まで凍りつきそうな水に叩きつけられ、ごぼごぼと水に沈む。が、一度は水面に浮かび上がれたので、そのまま泳いでこっそりと砂浜になっている近くの岸まで行こうとしたのだが……。
「い……ッッ!」
(……やばい! 足が……っ)
 急に冷たい水に入ったせいか、半分も行かないうちに足がつって動けなくなってしまった。
「く、う……ッッ!」
 冷たい水に容赦なく体温も奪われ、パニックに陥ってしまった高耶はしゃにむに暴れたが、躰はどんどん水に沈もうとする。
(直江……! 直江ッ!)
 急速に遠のいていく意識の中で、高耶は何度も男の名を呼んだ……。


*  *


 少し時間が前後する。
 散歩に行くと言って高耶が子犬だけを連れて城を出た後、直江はその後ろ姿が消えた橋の方向を見つめながら後悔に苛まれていた。
「……一体何をしているんだ。私は」
(……高耶さんにあんな顔をさせるなんて)
 必死に隠していたようだったが、寂しそうな影が滲んだ表情が頭から消えない。
 原因は、わかっている。
 自分のせいだ。
 普段は仕事が忙しいせいで滅多に顔をあわせることもなかったせいか、なんとか自制できていたのだが、ここへ来てからなんだか妙に彼を意識してしまって枷が外れそうになってしまうのだ。
 極力平静を装い、綾子との昔話に逃避していたのが、逆に高耶に疎外感を与え、傷つけてしまった……。
 すぐにでも追いかけて謝りたい。だが、その時自分の中の枷が外れてしまったら……?
 もっと彼を傷つける結果になりはしないかと思うと、動くこともできない。
 苦悩し、苦しそうな表情で外を見つめている直江に綾子は背後からそっと近づいた。
「……追いかけて行かないの?」
「……! 綾子?」
 ぎくりとして振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた綾子と目が合った。
「……馬鹿ねぇ。それで隠してるつもり? バレバレなのよ、あんたの場合。気づいてないのはあの子ぐらいのもんだわよ」
 ほんとに、天然記念物並の鈍さだわ。
 憤然と綾子が言うと、直江は力無く笑った。
「あんたの様子を見てまさかとは思ったけど、本気なんだ……」
「……勿論だ。……だが、あの人はこんな気持ち、受け入れてはくれないだろう……」
 玉砕してあの笑顔を失うくらいなら、何も言わずにいた方がいい。
 だが、綾子はそれをあっさりと否定した。
「それはどうかしらね」
「……?」
「……あんたも相当鈍いわね。あの子があんなに落ち込んでるのは、あんたとあたしのことを誤解してるからよ。本人が気づいているかどうかは別だけど、明らかに嫉妬よ。あれは」
「! ……まさか」
「そう思うなら、確かめてみたら? どっちにしろ、このままじゃ気まずくなる一方だと思うし。試してみる価値はあるんじゃないの?」
 呆然としている直江に綾子はにっこりと笑いかける。
「それに妙な誤解されたままじゃ、あたしも困るのよ。あたしには慎太郎さんていう大事な人がいるんだからね!!」
 ぴしりと人差し指を突きつけて言い放つと、くるりときびすを返す。
「さっさといってらっしゃいな。きっと待ってるわよ、あの子」
 綾子の言葉に背中を押されるように直江は橋の方へと歩き出した。
(……私は、確かめたい。……貴方の気持ちを……)


 
 高耶の後を追いかけて湖畔へ来たものの、どの辺りに彼がいるのか全く見当もつかない。
「高耶さん? 高耶さん。どこにいるんですか?」
 呼んでも返事もない。とりあえず岸に沿って歩いていくと、ふいに前方から大きな水音が聞こえてきた。まるで、何か大きなものが……人が落ちたような……。
「まさか……!」
 湖の水はもうだいぶ冷たくなってきているはずだ。下手をすれば落ちた瞬間に心臓麻痺で死んでしまいかねない。嫌な予感がしてとっさに音のした方へ駆けだした直江の耳に、今度はけたたましい犬の吠える声が聞こえてきた。
「高耶さん……ッ!」
 少し行くと湖岸でしきりに吠えている黒い子犬が見えた。間違いない。高耶が昨日拾った子犬だ。その吠える声に被さるように激しく水を掻く音がする。
「高耶さん!」
 冷たい水の中で必死に藻掻いている高耶の姿を見つけた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。そして、自分の危険すら省みずに湖の中に飛び込んだ。
「……ッ!」
 身を切るような水の冷たさも、恐怖も何も感じない。ただ、高耶を救いたい一心で近づき、藻掻く躰を抱え込んだ。
「高耶さん! もう大丈夫だから……!」
 必死にしがみついてくる高耶をしっかりと抱きかかえて岸に泳ぎ着く。もはや起きあがれないほど体力を消耗し、ぐったりとなっている高耶の冷え切った躰に自分の服を脱いでかけてやると、横抱きに抱え上げて急いで城に戻った。
 けたたましく吠える子犬の様子に異常を感じ取った綾子が扉を開けると、橋の方からずぶ濡れになった直江がぐったりとなった高耶を抱えて走ってくるではないか。
「直江! どうしたの!?」
「湖に落ちたんだ! 早く……彼を暖めるものを!」
「わかったわ。二階の部屋に運んで!」
 驚いて部屋から飛び出してきた老夫婦も慌ただしく動き出す。高耶の部屋の暖炉に火を入れて中を暖め、お風呂に熱い湯を張る。その間に直江はベットに寝かせた高耶の濡れた服を脱がせて暖めた毛布でくるんだ。
「高耶さん……ッ!」
 躰を丸めるようにして震えている高耶の躰はまだ冷たく凍えている。直江は自分の体温を分け与えるようにぎゅっと手を握り締めた。
「直江。あんたもその濡れた服脱いで、お風呂に入って暖まってらっしゃい。そのままじゃ風邪引くわよ」
「私はいい……ッ。それより、高耶さんが……ッ」
 梃子でもその場を動こうとしない直江の頬を、平手でばちんと叩く。
「……ッ!」
「しっかりしなさい! だいたい、そんな濡れた躰で触ってたら、暖まるもんも暖まらないわよ!」
「……綾子」
「……この子はあたしがちゃんと見てるから。お医者さんもすぐに来てくれるわ」
「……すまない」
 ようやく幾らか落ち着きを取り戻した直江は、青ざめた顔で少しの間高耶を見つめ、それからバスルームに向かった。
 暖かいお湯を頭から被ると失った体温が次第に戻り、興奮していた神経も落ち着きを取り戻してゆく。
「……高耶さん……ッ!」
 どうしてこんなことになってしまったのだろう?
 ようやく希望が見えたかと思った矢先、こんなところで高耶を失ってしまったら、もう生きていくことなんてできない。
 祈るような気持ちで、直江は拳をきつく握りしめた……。


 
 しばらくして直江がバスルームから出ると、ちょうど医者が帰り支度をして部屋から出ようとしていたところだった。
「ああ。君が彼を助けたのか。君の方はなんともないかね? 痛いところは? 寒気もない?」
「……あの、高耶さんは……?」
 矢継ぎ早に尋ねてくる老いた医師の問いには答えず、高耶の容態を訊いた。
「うん。外傷もないし、処置が早かったおかげで体温もほぼ平常に戻った。しかし、だいぶ体力を消耗しているようだから、今日一日は安静にして」
 医者の言葉に、直江はぎゅっと目を伏せて深く安堵の息をついた。
「……ありがとう、ございます」
「それじゃ、私はこれで」
 帰る医者を見送って老夫婦と綾子が部屋を出ていくと、直江はベットの傍の椅子に腰掛けた。
 まだ顔色は少し青いが、規則正しい呼吸を繰り返して眠る高耶の様子は落ち着いている。恐る恐る頬に触れると、彼の熱が指先からはっきりと伝わってきた。
(……生きている……)
「……高耶さん! 良かった……。貴方が、生きていてくれて……」
 俯いた瞳から涙がこぼれ落ちる。それが高耶の頬に落ちて、瞼がかすかに震えた。
「……ん。……な、お…え……?」
「高耶さん……! 気がついたんですか」
「……ここは? オレ、どうし……っ!」
 一瞬のうちに何があったのかを思い出す。
(そうだ。直江に会いたくなくて、逃げようとして湖に落ちたんだ……)
 気まずい思いも甦ってきて高耶は何も言えずに黙っていたが、直江の目が潤んでいることに気がついて双眸を大きく見開いた。
「……直江?」
「貴方が無事で、本当によかった……! 貴方が万が一にでも死んでしまったら、私はもう生きていけない……!」
 滲む切なさにぎゅっと胸が締めつけられる思いがして、高耶は表情を歪めた。
(……どうして……)
 どうして、直江はこんなことを言うのだろう? 
 芽吹きそうになる馬鹿げた期待を振り払うように、高耶は言った。
「馬鹿だな。……そういうセリフは好きな女に言ってやれよ」
「……そんな人、いませんよ。貴方以外には」
「……え?」
 見上げた直江の瞳には、今まで見たこともない切ない想いが浮かんでいる。
「私は……高耶さん。貴方が好きなんです。この世界の誰よりも、どんな魅力的な女よりも、貴方を愛している」
 あまりの衝撃に心臓が止まってしまいそうだった。とっさに何も言えずに呆然と直江を見つめていると、男は自嘲するような笑みを浮かべて問うた。
「……気持ち悪いですか?」
「……嘘。……だって、直江はあの人と……」
「綾子のことですか? 違いますよ。……あれは、貴方に対する感情を抑えるために逃げていただけです。実際、綾子には慎太郎という日本人の恋人がいますしね」
 それでもまだ信じられずにいると、次第に直江の顔が近づいてきた。
「嫌なら嫌だとはっきり言ってください。そうしたら、私は貴方の前から永久に消えます。……何も言わなければ、このまま貴方を奪ってしまいますよ。……もう、我慢できそうにない……」
 とっさに「待ってくれ」と言おうとした唇を直江のそれが塞ぐ。暖かい唇はぎゅっと押しつけられて、すぐに離れた。
「……っ! 待ってって言おうとしたのに……ずるい」
「高耶さん……?」
 頬に朱を散らしてゆっくりと躰を起こした高耶は、深く俯いて直江の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「…………だよ」
 小さな、小さな声で囁かれた言葉に、直江は一瞬目を見開いた。が、すぐに破顔して耳元に唇を寄せた。
「……もう一度、言ってくれませんか? よく聞こえなかったんです」
 笑っている男の言葉は明らかな嘘。わかりきっていたが、高耶は耳まで真っ赤に染めて少し声を大きくしてもう一度同じことを言った。
「……オレも、直江のこと好きだよ……っ」
 男は答える代わりに細い躰をぎゅっと抱き締めた。応えるように高耶も直江の背中におずおずと腕をまわした。
「……どうして、湖に落ちたりしたんですか?」
「……それは、直江に会いたくなかったから、逃げようとして……。直江のこと好きだって気がついたけど、直江にはあの人がいるし、受け入れてくれるわけないと思……っ」
 高耶の言葉を奪うように口づける。
 お互いに空回りしていた想いが、固く結びあう。
「私のせいですね。……本当にすみません」
「……もういいよ。おかげでこうしてお互いの気持ちがわかったようなもんだし」
「……高耶さん」
「直江……」
 想いのまま、もう一度キスをかわそうとしたその時−−
 二人の間に黒い毛玉が割り込んできて、わおんと吠えた。
「……お前」
 子犬は直江を威嚇するように睨んでいる。襟首を掴んでベットの下にやろうとすると、噛みつこうとして手が出せない。まるで高耶を守っているかのようだ。
「高耶さんを安静にさせろと……?」
 冗談のつもりで言った言葉だったが、子犬は肯定するように一度吠えた。
「オレはもう大丈夫だからさ」
 高耶が言うと、今度は彼に向かって吠える。
「……しかたありませんね。医者も安静にしているように言っていましたし」
 高耶の肩をそっと掴んでベットに寝かしつける。子犬は黙ってそれを見て、おもむろに足元に行って丸くなった。
「……直江。部屋に戻るのか?」
「……貴方が望むなら、ここにいます」
「……うん。オレが寝るまででいいから、ここにいて……」
 直江が深く頷くのを見てから、そっと目を伏せる。椅子に座ったまま見つめていると、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始める。
「……明日は、二人で出かけましょう。楽しい想い出を、これからは二人でつくっていきましょう。高耶さん……」



 この休暇の出来事は、一生忘れられそうになかった……。 


END




 いたち茶屋さんにUPしていただいていた作品を再UPです。
 このお話を書いていると、何故か子犬を応援したくなってしまいました。子犬に邪魔される直江……。ああ、なんかいいかも(←馬鹿) 私はナオエスキーなはずなのに……どうして?



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