Written by とらこ  

  第二話


『明日の土曜日、いいですか?』
 直江が電話でそう言ってきたのは、ちょうど一週間後のことだった。
 いざとなるとやはり怖くて、とっさに嫌だと言ってしまいそうだったが、必死に押さえ込んで「いいよ」と短く返事をした。
『じゃあ、明日の朝八時に迎えにいきます。……今からそんなに緊張しないで。私も一緒なんですから』
「……うん。じゃあ、明日」
 直江の言葉に少し安心したのも束の間。電話を切るなり色々とよけいな想像が頭に浮かんできてしまう。無論のことながら極度の緊張と不安でほとんど眠ることができず、翌朝迎えに来た直江は青白い顔をした高耶を見て心配そうに表情を翳らせた。
「……大丈夫ですか?」
「うん、平気。……行こうぜ」
 直江の顔を見て少しは安心したのか、僅かに表情を緩めて口元にかすかな笑みを浮かべると、高耶はウィンダムの助手席に乗り込んだ。
「あまり寝ていないんでしょう? 長時間のドライブになりますから、シートを倒して少し寝てください」
「うん。……ごめん」
 それでも少しの間は起きていて、とりとめのない会話をかわしていたのだが、不意に高耶の声が途切れた。
「高耶さん?」
 助手席に視線をやると、窓に頭を凭れるようにして高耶は心地よさそうな寝息をたてていた。直江は小さく笑って一度路肩に車を寄せると、助手席のシートを倒して高耶の身体が楽な姿勢になれるようにしてやった。
「……少し、ゆっくり行きましょうか」
 愛しい人の眠っている横顔に向かって小さく呟き、頬にそっと唇を落とす。それからおもむろに車を発進させる。
 −−栃木の実家、光厳寺へ向かって……。


*  *


 一方、栃木の橘家では三男坊とその連れを迎えるべく着々と準備が進められていた。特に母のはりきりようといったら……。弟が連れてくる相手を知る唯一の人間・照弘は複雑な面持ちでそれを見つめていた。
(……すっかり相手は女性だと思ってるようだな……。まぁ、当たり前なんだが……)
 ここで先に言ってしまうべきかどうか、正直なところ照弘は迷っていた。このままでは今のはりきりに反比例して多大なショックを受けることはわかりきっている。少しでもそれが和らぐようにしたいのは山々なのだが……。上手い方法が見つからないままに刻一刻と時間は過ぎ去ってしまった。御飯もまともに喉を通らないほど考え込んだが、結局何も妙案を思いつかないまま、そのうちに弟の車が外に着いた音が聞こえた。
「……万事休す、か」
 照弘は考えることを放棄して、弟ともう一人を出迎えるべく玄関に向かった。
「お帰りなさい、義明さん。東京から長旅で疲れたでしょう。お連れの方、も……」
 上機嫌で迎えに出た母の声が途中で途切れる。玄関口から外に出ようとしていた照弘は無理もない、と思う。
 てっきり女性だとばかり思いこんでいた弟の連れが、どこか強張った面持ちの、しかもまだ少年といっても差し支えのない男性だったのだから。
 呆然として立ち竦む家族一同を前にして、その彼をごく自然にエスコートして車から降ろす。見慣れた弟の顔はともかく、青年の綺麗な顔立ちも手伝ってか、自然でこの上もなく美しい光景に声も出ない。見惚れているうちに、問題の三男坊がつかつかと歩み寄ってきた。
「どうしたんですか? こんなところに皆で突っ立って」
「え……? あ……いや」
 口ごもる父を見かねて、照弘が口を開いた。
「義明。とにかく中に入れ。話はそれからだ。−−さぁ、お母さん達も」
「あ、あぁ。そうですわね」
 ようやく我に返って、ぞろぞろと家の中に入っていく。その後ろに直江とガチガチに緊張している高耶が続いた。
 照弘はその二人の後ろ姿を見つめて、これから始まるだろう騒ぎを思って深い深いため息をついた……。



 案内されるままに客間に入った二人は、直江の家族と向かい合う位置に座った。高耶は僅かに顔を俯けて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめている。一方直江はというと、至って涼しい顔でお茶を飲んでいる。どちら側も口を開くことなく、重い沈黙が場を支配していたが、直江の父がようやく絞り出すように言った。
「……義明。そちらの方は……お前の友人か?」
「……いいえ」
「……?」
 直江は手にしていた湯飲みをおもむろに置いて、真正面から家族の一同を見据えた。困惑している父母、次兄の義弘。そして、ひとり事情を知る照弘は険しい顔つきで直江を見ている。
 びりびりと高まる緊張感から、高耶にも照弘にも、直江がいよいよカミングアウトするつもりなのだと悟る。
(……直江!)
「この人は仰木高耶さん。都内の大学に通っている方です」
「……仰木、高耶です。よろしく……」
 ややうわずった声で短く言って、そのまま黙り込んでしまう。よく見ればその綺麗な顔をかすかに青ざめさせて、震えてさえいるようだった。何がこの青年をそんなに怯えさせているのか、家族にはわからない。
「…この人は、高耶さんは……」
「……っ! ちょっと待て! 義明!」
 直江の言葉を遮るように照弘が口を挟む。耐えられなくてやめさせようとしたのだが、直江は構わずに言葉を続けた。
「高耶さんは、私がこの世で一番大切に想っている人です」
 瞬間、高耶は怯えて目をぎゅっとつぶり、照弘は天を仰いだ。
 客間におりたしばしの沈黙。それを破ったのもやはり父だった。
「……義明。……もう一度、言ってくれないか」
「はい」
 直江は臆面もなく返事をして、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「ですから、ここにいる高耶さんは、私がこの世の中で一番大切に想っている人です」
「……義明さん……ッ!」
 悲鳴に近い声で叫んだのは母だった。
「……この方は、男の人なんですよッ!」
「わかっています」
「わかっているなら……っ」
「そんなこと、私にとっては障害でもなんでもありません。性別も、年齢も、関係ないんです。ただ、高耶さんを愛しているという気持ちだけが私にとって大事なことなんですから」
 これ以上ないくらい真摯な想いの言葉は、しかし、今の橘の家族にとっては更なる混乱を招くものでしかなかった。
「義明さん……ッ。あなたは……っ」
 母はそれ以上何も言えずに震えている。
「……義明。……お前、本気なのか?」
 幾らか冷静な義弘の問いかけに強く頷き返す。
「……しかし、いきなりそんなことを言われても……。信じられないよ。……だって、仰木君とお前は……同じ…その、男性だし、年だってだいぶ違うんだろう?」
「そうですね。でも、さっきも言ったように、私にとってはそんなことはどうでもいいんです」
「どうでもいいわけありませんっ!」
 金切り声を上げて叫んだのは、すっかり取り乱してしまった母だった。
「どうでもいいことじゃありません! ああ、もう。だから心配だったんですよ。やっぱり世間様に顔向けできないようなことをして……!」
「お母さん」
 思いのままに口走りかけた言葉を、直江のいつになく冷たい声が遮る。
「それ以上は言わないでください」
「いいえ! 言いますよ! そんなこと許されません! 仮にも御仏に仕える寺の息子がそんなことを……!」
「−−お母さん」
 しん、とその場が一気に静まりかえる。それほどの迫力と絶対零度に凍った息子の声に、母はびくりと肩を震わせた。
「それ以上言わないでくださいと言ったはずです。この人を傷つけるような言動は、幾ら家族でも許し難い」
「なお……義明! いくらなんでも言い過ぎだ!」
 たまりかねた高耶が、ばっと顔を上げて叫ぶ。
「……高耶さん」
「……オレは大丈夫だから」
 高耶にそう言われては直江も黙るしかない。またしても重苦しい沈黙がみんなを包み込もうとしていたが、照弘が先んじて言った。
「……とにかく、義明。お前の言いたいことはわかったから……。私たちに少し考える時間をくれないか」
 すぐに認めろといっても、それは無理な話だ。父も同意して深く頷く。
「……そうだな」
「……わかりました。−−では、高耶さん。行きましょうか」
 さっさと立ちあがって客間を出ようとする背中に、母の声がかかる。直江が家に泊まるものだと思って準備をしていたのだ。
「……義明さん! どこへ……」
「市内にホテルを取ってありますから。……それに、私たちがいない方が話もし易いでしょう」
 直江はそう言ってさっさと玄関の方へ歩いていってしまった。高耶は橘の家族と直江の背中を何度か見比べて困ったような顔をしていたが、名を呼ばれてしかたなく玄関へと向かった。その前にふと立ち止まり、直江の家族に向かって深々と頭を下げる。何か一言でも言いたかったが、今は何を言っても受け入れてもらえそうにないと判断し、それだけにとどめたのだ。それから、ぱたぱたと玄関へ走り去ってゆく。
 二人を乗せた車の音が遠ざかると、橘夫人は放心したように床の上にへたりこんでしまった。
「……なんて、ことでしょう……」
 夫人が漏らしたこの一言が、家族全員の一致した胸中であった……。


*  *


「お前なぁ! 何もあんな冷たい言い方しなくてもいいだろ!」
 ホテルへと向かう車内では、ようやくいつもの調子を取り戻した高耶が直江に叫び散らしていた。
「お前のことが大事だからああいうこと言っただけだろ? それなのにお前は……」
 実の息子にあんなに冷たい物言いをされたのは初めてなのだろう。橘夫人のショックを受けた表情がありありと浮かんできて、高耶は苦しそうに眉を寄せた。
「それはよくわかっていますよ。でも、たとえ家族であっても、貴方を傷つけるような真似はされたくないんです」
「オレは大丈夫だって言ったろーが!」
 高耶は突っぱねるように言ったが、直江は首を横に振る。
「嘘。大丈夫な人があんな不安そうな顔をしたりはしませんよ。……貴方はずっと怯えていましたね。そんなに怖かった?」
 包み込むような直江の言葉に、ふと強がりの仮面が外れる。怒っていたはずの高耶の顔が、見る間に歪んだ。
「……当たり前だろ。許されない、認められないって、言われるのはわかりきってたけど……やっぱり面と向かって言われるとな……」
 考える時間が欲しいと照弘は言っていたが、いくら考えても話し合っても、橘の家族が出す結論は決まっている。
 直江と引き離されてしまう幻想が、にわかに現実味を帯びて高耶に忍び寄る。
 やるせない思いを抱えて、高耶はじっと移りゆく窓の外を見つめていた……。 





 つ、ついにカミングアウトです! しかも直江、あっさりし過ぎ! 照弘兄の胃痛はさらに増大……。我ながら照弘兄が可哀想になってきました。なんだか感情が激しい橘母になってしまいましたね。原作ではどちらかというと穏やかそうな人なのになぁ……。感情が激しい分、照弘兄と義弘兄の苦労は増える……。
 次のお話あたりの最後で駆け落ちまでなだれ込めるといいな〜と思っておりますが、まぁ、予定は未定ってね。



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